24

 上着を手に持って顔を出した男は、どこかで見覚えがある。それは彼も同じなのだろう、私の顔を見るとぱちぱちと瞬き、少し考え込むようにしてから「お客様……?」と独り言ちた。その一言で思い出した。いつもと違って、ラフなスウェットだったから気づかなかったけれど、カフェの店員だ。私はひとまず彼に笑顔を引きつらないよう浮かべながら挨拶した。

「すごい、偶然ですね! どうして、ゼロの知り合いですか?」
「ゼロ……って、降谷くんのこと?」
「あ、すみません。ついあだ名で」

 寒かったのだろう、ツンっとした鼻の頭を赤くして、彼は涼やかな顔つきをへにゃりと笑ませた。私は彼の表情につられるように笑った。青年はすぐに「諸伏です」と名乗り、その丸っこい頭を小さく下げた。
「あ……みずきです。橘みずき」
「橘さん。ゼロとは……」
『みずきさん?』
 諸伏が話し始めたところを、電話の向こうの萩原の声が遮った。諸伏は状況を理解しておらず(――当たり前だが)、通話中になった私の携帯電話を見て首を傾げた。細い眉が下がって、申し訳なさそうに私を見る。指先が軽く諸伏自身の口に当たり、「邪魔だったかな」と降谷に向かって呟いていた。
 私はゆるく首を振ってから、電話を顔に当て、萩原に向けて断りをいれようとした。

「ごめん、ちょっと間違えて掛けちゃっただけ」
『……そう? ねえ、みずきさん、今どこにいる?』
「え? えーっと……ちょっと飲み屋に……」

 降谷が口元だけで「き、け」という形をとってくる。私は顔を引きつらせてぶんぶんと首を左右に振る。この流れで、どう話を切り出せと言うのだ。萩原が何か言ったような気がしたが、そちらに気が逸れてしまい、上手く聞き取れなかった。
『みずきさん、あのさ……』
「だから、無理だって……あ、違うの。萩原くんに言ったわけじゃ……」
「そっちが相談してきたんだろ」
「それは悪いと思うけど!」
 他人事のように――いや、まさに他人事か――言い放つ降谷に、思わず声が上がってしまった。私ははっとして口元を押さえる。それから萩原に、やや口早で謝った。
「本当にごめん。卒論終わって疲れてるよね、ゆっくり休んで」
 これ以上みっともない姿を見せたくなくて、私は一方的に電話を切った。確かに相談したのは私だし、彼に直接尋ねるのが一番だという結論も分かったが、こうも力技に出るとは――。この降谷という青年、やっぱり昔の自分に似て、やや頑固な一面が窺える。

「……よし、ゼロ。オレたちは行こう」
「は? どうしてだよ」

 ぽん、と肩を叩いて、諸伏はにこやかに告げた。私も目を丸くして青年を眺める。降谷もまったく同じような表情で、諸伏のことを怪訝そうに見ている。諸伏は降谷の金色の髪をくしゃりとさせて、やや強引にその体を座席から引っ張り出した。
「良いから。あ、橘さん、席のお代は払っておくから。それ飲んだら遅くならないうちに帰ってくださいね」
「あ、いや、それは悪いし……」
「またお店来てください。じゃあ」
 私が断ろうが、彼はお構いなしに、ニコニコとした顔つきで降谷を引っ張っていってしまった。私は一杯の生ビールを握りしめて、ポツンと席に一人取り残された。――しまった、お金は後で、降谷を通して返すとしよう。とりあえずジョッキの中身はもったいないので、喉の奥に流し込んだ。


 店の外に出ると、冷たい風がぶわっと髪を巻き上げた。
 それを手櫛で直しながら、冷えた空気に肩を摩る。湿った香りが鼻の奥に掠める。雨が降るかもしれないな――そう思いながら、駅の通りを歩いた。傘を持っていなかったから、少しだけ早足で。地元の駅に着いた時、ポツンと雫が首筋を打つ。

「みずきさん!」

 ――一瞬、聞き間違いかと思った。
 水滴がアスファルトを打った音が、鮮明に聞こえたような気がしたのだ。しかし、すぐに大きな手が肩に乗って、私はその人の姿を思い浮かべることができた。振り返ると、予想していたよりもずっと険しい顔をした萩原が、白い息を細かく吐いて立っていた。
 触れた手のひらは、とても熱く感じる。私は彼の名前をぽつりと呟いた。彼がコートも羽織っていなかったことが不自然で、小さく首を傾げる。ポツン、ポツン。雫が大きくなってきた。

 今度こそ、アスファルトを打つ音だ。さあ、さあと街路樹の枝に雨が降り注ぐ。容赦なく彼の長い髪を濡らす雨の筋に、私は慌ててその肩に触れた手を掴んで引いた。その間、特に何か話すわけじゃなかった。
 雨の音だけ。ただただ駆け足に、雨が届かないところまで走った。けれど、触れた場所から彼の感情が流れ込むような気がした。私の感情も、もしかしたら彼に伝わっていただろうか。

 マンションの部屋で、タオルを彼に渡す。びっちょりと濡れた長い髪を、白いタオルで包んだ。私も髪の毛や体を拭いて、靴を脱ぎ、私の部屋着用のパーカーを取りに行った。今は元彼の私物を置いていないので、彼に貸せる服がなかったからだ。
 しかし、取りに行こうとした私の袖を、その手が引いた。
 大きな手なのに、私の濡れた服の袖を、ほんの僅かにつかんだだけ。大きなタオルが被った頭を拭いもせずに、萩原は俯いたままだった。
 タオルに手を伸ばす。髪の毛の水分を、わしゃわしゃとかき乱すように拭き取った。首や肩を拭うようにして、タオルを外す。黒く艶やかな髪が、私の拭き方のせいでうねって濡れていた。

「……なんで泣いてるの」

 雨の筋かと見間違うような雫、けれどそれは確かに萩原の垂れた目つきから零れていた。涙が伝った痕だけ、少しだけ赤く筋を残している。萩原は涙を零したまま、私の顔を見上げた。


「ごめん」


 絞り出したように、低い声が呟いた。「ごめんね」、もう一度、私に届くように。ゆったりとした声色とは少し異なる、焦りを含んだ声。
「俺、ヤキモチ妬いてんだ」
 彼は厚い唇を僅かに戦慄かせて呟いた。もう雨は降っていないのに、その頬には何度も雫が落ちていく。
「みずきさんが、他の男といたから、嫌だった。ごめん、ごめんなあ」
「謝るのは、どうして」
「だって、下心があるって分かったら、もうメシ食ったりできねえよなぁ。俺、このままで良かったんだ。本当に、このままでも良かった……良かったはずなんだよ」
 私は、ようやく息を呑んだ。
 呼吸を忘れていたような、深い息。彼の言っていることが、私の想いに似ている。私が、彼に抱いた感情に、似ていた。その顔に掛かった髪に手を伸ばす。すっと耳に掛けてあげると、彼は私の手にすり寄るように頬を寄せた。

「――一個だけ、聞いても良い?」

 私が切り出すと、萩原はその瞳をこちらに向けた。涙の膜が揺れる、綺麗な瞳だ。人よりも黒の色素が濃いような色。その中に、情けなく眉を下げた私の表情が映っていた。降谷の言葉が、私の頭の中で響いていた。――『人の感情なんて人には分からないし、人の思惑だって人には分からないよ』。

「その……昨日、耳にキスしたのは、気まぐれや間違い?」

 無意識に、もう片方の手が自分の耳の縁を撫でていた。
 不安だったのかもしれない。彼も、同じようにふにふにと自身の耳たぶに触れていた。いや、出会った頃から、それは萩原の癖だった。

「――違う」

 明確な答えではなかった。けれど、それで十分だった。さっき繋いだ手のひらが、早く熱く脈打っていたから。私と同じように、ドキドキとその鼓動を鳴らしていたから。私はぐっと背伸びをして、彼の濡れた頭を抱きしめていた。

 もう人を好きになりたくない、自分への言い訳だった。
 彼は年下だから。彼は友人だから。出会ったばかりだから。今までの感覚とは違うから。
 恋をしたら、苦しいことを知っている自分が、その感情を追いやりたかったのだと、今ならよく分かる。
 今でも、人を好きになることは怖かった。だって、それは努力で実らない。手に入っても、簡単にどこかへ擦り抜けていく。どうか、今度はこの手から擦り抜けていかないように。私は僅かに怯える手つきで、その頭を引き寄せて、ぎゅうと濡れた頭同士をくっつけていた。