25


 薄い壁の向こうで、シャワーと乾燥機の回る音を聞いていた。
 なんだか、意識がぼうっとしてしまう。先に乾かした私の髪は、馴染みのあるシャンプーの香りがした。意味もなく爪の先をやすりで整えながら、萩原の濡れた髪の感触が過ぎる。寒くはないかな、風邪を引かないと良いのだけど。
 落ち着かない心を無理に落ち着けながら、耐熱のマグカップに牛乳を注いで、電子レンジに掛けた。回るマグカップを眺めて、うろうろとキッチンを右往左往していたら、洗面台の扉が開く気配があった。

「あ、服ありがとう。ちゃんと乾いたよ」

 背後から掛かった声にギクリと体が強張る。
 私は背中を向けているうちに、すうっと大きく一度深呼吸をし、何てことのないフリをする。電子レンジが音を鳴らす。温かな湯気を立てたホットミルクに、はちみつを一さじ。
「ううん、乾いたなら良かった――……」
 彼のぶんのマグカップを持ち、振り向いて、私は一瞬指先のバランスが狂ったのを感じた。それを慌てて立て直し、彼を見上げる。別に、特段気合の入った格好をしているわけじゃない。白いトレーナーに、スポーツブランドのジャージ。普段外にでる時はジャケットやシャツの多い萩原からしたら、部屋着といっても良いかもしれない。しかし、そのぽさっと抜けた雰囲気が、今の私にはどうにも駄目だった。
 普段とのギャップに、ぐっと言葉に詰まりながら、私は彼を手招きリビングのソファに座らせる。いつも使っているアウトバストリートメントをワンプッシュ、手のひらに馴染ませてから、その漆黒の太い髪質に広げていく。
「匂い、好きじゃなかったらごめんね」
 それほどキツいものではないと思うけれど、蘭の匂いだ。男の人には、苦手な人もいるかもしれない。馴染ませてから、ドライヤーで髪を伸ばしていく。艶めいた髪質は、手櫛を通すとさらっと流れていった。

「……良い匂い」

 ドライヤーの風の音に紛れてしまうほどの声色で、彼が呟いた。頬に掛かる髪を指先で鼻まで手繰り寄せる。高くしっかりとした鼻が、その匂いに鼻を鳴らした。それから、太い眉が穏やかに弧を描く。
「みずきさんの匂いだ」
 にひ、と面長で肉のない頬が盛り上がる。緩んだ口元に、私は再び言葉を詰まらせた。
 ――萩原くんって、こんなにも可愛い人だっただろうか。
 私は彼の髪をささっと乾かして、ドライヤーを切った。名残惜しそうにこちらを振り返る視線すら、今の私には毒だ。ドライヤーを元の場所に片付けてから、キッチンに置きっぱなしにしていたホットミルクをリビングのテーブルに置いた。ほかほかと立っていた湯気は、もうその身を潜めてしまっている。

 私は彼の隣に腰を掛ける。萩原のほうがぐっとソファが沈んでいて、彼の体格の良さを物語っていた。その大きな手でマグカップの取っ手を掴んで、所在なさそうに甘ったるいミルクを流し込む。萩原は、甘く温かな吐息をフウ、と零した。

「……迷惑、掛けるつもりじゃあなかったんだぜ」

 落ち着いたのか、彼は先ほどよりも余裕を持った声色で語り始めた。その目じりの赤さだけが、先ほどの涙の痕を思わせた。
「俺にも、いつからなのか分からなくて。だけどさ、他の男といるかもって思った瞬間に、いてもたってもいられなかったんだ」
「……私も」
 私が言葉を紡ぐと、萩原は意外そうに、しかし此方に耳を傾けた。私は、以前萩原のキスシーンを見てしまった、あの時の感情をそのままに話した。どうしてだか、とてもショックであったこと。涙が溢れて止まらなかったこと。その感情に名前をつけられなくて、ずっと困っていたこと。

 私がマグカップの縁をなぞりながら話し終えると、彼は大きな頭を軽く私の肩へと凭れさせる。凭れた場所から、垂れた目つきがチラリとこちらを見上げた。湯上りのせいなのか、そうでないのか、血色の良い頬が目に付く。

「それってさ、俺の期待通りで良い?」

 そう尋ねる彼の表情は、柄にもなく不安げだと感じた。
 いつもは余裕そうに、ヘラっと笑うのに。こちらのことを見透かしたように、大人びた色を見せるのに。まるで家の分からない子どものような、そんな自身のなさが、私の鼓動を何度も打つ。
 一瞬、戸惑った。
 私は、この感情に素直になって良いのだろうか。ここで頷いたら、ただの一方的な想いが、恋愛という形を得る。あんなにも名称を求めていたのに、今はそれが恐ろしく思えた。愛は、怖い。私の想い通りにならない。掛けた時間の通りに、費やした努力の通りに応えてくれない。
 どれだけ私が好きだと思っても、会いたいと信じても、天秤はいつだって平らではない。

『ごめんね、明日は早く帰ってくるから――』
『こんなんだったら、狙わなきゃ良かったな』

 ねえ、明日っていつくるの。
 愛してると言った私の言葉はどこに捨てられたの。
 振り向いてもらうために掛けた時間は、努力は、お金は、愛は。見えない怪物に食べられたまま、返ってくることはない。彼らは私の二十数年を、いとも容易くゴミ箱に捨ててしまうのだろう。
 
『俺は好きだよ。みずきさんの頑張り屋さんなところ』
『俺は、みずきさんの作った料理が好きだよ』
『俺、みずきさんのこと見つけるの上手でしょ』

 ――もう一度、踏み出しても良いだろうか。不安さに視線を揺らす青年に、手を伸ばしても。彼の声が、吐息が、私の胸を大きく鳴らす。
「……良いよ」
 私の声もまた、彼の視線のように自信がなかったと思う。
 その揺らぐ視線に、もしかしたら萩原もまた、自分の愛に思うところがあるのかもしれないと思った。互いの凹凸を埋めるように、彼は厚い唇を軽く私の頬に触れさせた。以前より、ずっと温かな体温をしている。

「――……マジ?」
「それ、キスしてから言うかな……」
「今のは衝動で……。本当に? 本当に良いの?」
「あんまり言わないで。恥ずかしいんだから」

 私は彼の言葉に苦笑いを浮かべて頷く。萩原は「やった」と、やっぱり少し子どもじみた笑顔を浮かべる。その体が動くと、ソファが少し軋んだ。彼は手に持ったマグカップをテーブルに置くと、口角を緩く持ち上げて笑った。
「本当は、少し怖いんだ。感情とは別に、また上手くいかないかもなんて思ったりしてね」
 その言葉は、私の心を代弁しているようだった。
 萩原は眼差しを寂し気に細めて、それから思い直したようにゆっくりと重たく瞬く。濃い睫毛の影になって、瞳に差し込む光が少なかった。
「でも、やっぱり嬉しいんだ」
 私と同じ香りが漂う彼の頭が、すぐ傍にある。服から香る煙草の匂いと混ざって、私とは少し違うニュアンスな気もした。さらっと彼の髪が、私の視界を一瞬奪う。シーソーのようにソファの傾きが変わった。

 向かいあうように姿勢を変えた彼の膝が、私の腿のすぐ傍に掛かる。背もたれについた大きな手が、私の後頭部を軽く撫ぜた。「――嬉しい」、噛みしめるように、彼はいつものゆったりとした声色で、もう一度呟いた。

 私は、つい唇を巻き込むように噤んだ。
 ここから先に、何が待っているのか、さすがに私でも予想ができてしまったからだ。恥ずかしくて、むずがゆくて、でも目の前にある頬がへにゃりと至極嬉しそうにすると、羞恥心とプライドが溶けていく。

「みずきさん」
「……ん?」

 私は絆されたままに彼の顔を見上げた。ふに、と柔らかな感触。母親が子どもに落とすような、触れるだけの柔らかなキスだった。ホットミルク、甘すぎたなあと、私はそのキスを受け入れながら考える。
 数秒くっついただけの唇がゆっくりと離れて、萩原は涙の痕が残る目じりを微笑ませた。雪解けのような、瑞々しく綺麗な笑顔を、私は生涯覚えているだろうと強く感じたのだ。