26

 十分――いや、五分おきに、私は鏡を覗き込んでいた。
 前髪は変じゃないか、化粧厚くなっていないか、服装は、香水は。一度気になり始めるといろいろな解れがきになってしょうがない。一本髪の束が揃わないのも、目じりのアイシャドウがよれるのも気になってしまう。ちらりと腕時計を覗いてから、ふうと大きく深呼吸をした。

 萩原研二という、人好しの青年と、付き合うことになって一週間。その間も仕事終わりに松田と一緒にご飯を食べるくらいはあったが、改めて外で待ち合わせをするのはこれが初めてだった。所謂、デートというやつだ。こうして外に出かけるようなデートをするのは、どれくらいぶりだろう。前の彼氏とは、最後の方は殆ど互いの家や近くのデパートくらいだったから。
 ランチのあと、私が前から気になっていた個展を見てから、少しだけ買い物をして帰る。何度も頭の中でシュミレーションをしてしまうくらい、私はこの一日が楽しみで、同じくらい不安でもあった。
 なんとか頭を振り、クールなフリをして携帯を眺める。初めてのデートだから、少しタイトめなスカートを履いてしまったけれど、体型は大丈夫だろうか。彼が好きといった匂いを参考に香水を選んだけど、おばさんくさくはない? 些細なこと。けれど、萩原に嫌われたくなくて、ついそわそわとする。

 シルバーのピアスの位置を直していると、トン、と軽く肩を叩かれた。ふわりと、シトラス系の香水が私の鼻を擽った。振り向けば、優し気な垂れ目と視線が合う。ボルドーのタートルネックに、黒いジャケット。私の姿を見ると、もとから緩やかに上がっていた口の端がニっと持ち上がっていく。

「おはよ」
「お、おはよう」
「ごめん、寒かった?」
「ううん。ちょっと早く着きすぎちゃって……」

 大丈夫、と笑う頬が固かった。
 つんとした冬の冷たい空気は澄んでいて、彼の姿をよりくっきりとさせるような気がした。好きだと自覚してしまうと、色々なものが目についてしまう。背が高いわりに、少しだけ屈みがちな姿勢や、足は長いが筋肉質であることとか。そして、その全てが彼を輝かせるパーツだった。
 つい、と視線が自然と下がっていく。恋人になっただけで、こんなにも態度が変わるなんて、恥ずかしいし申し訳なかったのだ。ドキドキと早く打つ脈を聞かれないように歩き出そうとしたら、温かいものが手の平に触れた。

「なんか、今日綺麗。これ、俺の欲目かね」

 ぎゅ、と太く温かい指が私の指の隙間を縫った。男の手だと分かる大きさだけれど、指の形は女の子と遜色がないほどにスラリとしている。
「……萩原くんも、格好いいよ」
 伝えるのは恥ずかしかったけれど、ぽつりと唇を小さく動かして言えば、萩原はニヒ、と口端を引っ張って笑った。嬉しさが滲んだ頬に、私は少しだけ固くなった頬が綻ぶのを感じる。

 



 彼と過ごす時間は、たった五分が十時間にも三十時間にも感じた。
 普通楽しい時間というのは早く過ぎるのでは、なんて思うのだけれど、萩原と話していると、二日も三日も一緒にいるような気持ちになる。コーヒーカップがよく似合う、器用な指先が好きだ。私が何かを言うたびに、垂れた目つきがチラリと見上げるようにこちらを見遣る。
 その瞳に見つめられていたら、彼のことがどんどんと好きになっていくのが分かった。頬杖をついて、むにっと歪んだ口が時折フっと噴き出すような笑う仕草を見ていると、心の底がじんわりと温かくなる。


「みずきさんは、美術館とか好きなの」

 
 ビルの五階にある、絵本作家の個展。萩原はその外見には少し不釣り合いに感じる原画を眺めながら尋ねた。
「……うーん、好きかも。私の友達が好きで、仲良くなるために調べたのが切っ掛け」
「そうなんだ。女の子っぽいよねえ、俺のダチには絶対いないタイプ」
「あはは、案外松田くんとか」
 笑いながら肩を竦めたら、萩原は一度驚いたように目を見開き、肩を大きく震わせた。周囲が静まっていたから、なんとか笑い声を押さえようとしたのだろう。クックック、とさながら悪役のように喉を鳴らして、大きな手が口元を押さえている。
「そりゃ、ズリぃよ。みずきさん、俺が笑うって分かって言ったでしょ」
「バレちゃったか」
「真面目そうに見えて、ケッコーそういうとこあるよなあ」
 ふふふ、と余韻に笑う萩原を見て、私も笑った。とてもじゃないが、松田が美術館にいること自体が想像できなかった。いたとして、ソファに寝転がって居眠りしていることだろう。
 目じりに涙を滲ませた様子に「ごめんって」と私は笑いながら謝った。
「萩原くんは、こういうところ興味ない?」
「俺? みずきさんと一緒だよ。身近にこういうの好きな人がいてさ……」
 身近に――先ほどの言い草だと、友人ではないのだろう。一瞬不安が過ぎりながら、相槌を打つと、萩原の体がぴたりと固まる。それまでゆったりと手を繋ぎながら一緒に歩いていたので、彼の歩みが止まったのはすぐに私に伝わった。
 首を傾げて振り返ると、萩原もぱちんぱちんと大げさに瞬き、さらに後ろを振り返る。背後には、特に人影が見えるわけでも――あった。彼の体が大きくて、殆ど見えなかったけれど、ぴょこんと跳ねた黒髪が覗く。大体、彼の太ももあたりに――ずいぶんと小さな人影だった。

「研ちゃん!!」

 静まったフロアに、明るく無邪気な声が響いた。顔を出した少女は、ちょうど就学したかしてないか、というくらいの年齢か。萩原が驚きながら、あたりを見回す。そしてある一点を見つけたと思うと、いつも朗らかな口元がやや引き攣るのが分かった。

「こーら、あんまり遠く行っちゃ……。あれぇ、研二じゃんかあ」

 こつこつと固いフロアを鳴らして歩いてきたのは、私よりも少し年が上だろうか、前髪をふわりと掻き上げた厚めの唇の女性だった。同性から見ても、ずいぶんと色気がある女性で、萩原に抱き着いた幼い子どもを抱き上げる時に、髪を耳に掛けた仕草など本当にエロティックだった。
「最近顔見せないから死んだかと思ってたわ」
「ひっでぇ……、誕生日プレゼント送っただろ」
「あー、店舗限定のストール! ん……? ああ、ハイハイ。研二が良いのね」
 抱き上げた子どもが何やらを訴えて、女性から萩原の手元に引き渡される。少女はずいぶん嬉しそうに顔を綻ばせて、ぎゅうっと萩原の太い首に抱き着いた。

 友達――とか。それにしては、年齢層に差があるような気がした。前付き合っていた彼女――ありうるかもしれない。年上への接し方には慣れている雰囲気があるからだ。私が少し考え込んでいると、ゴールドのアイシャドウが乗った色っぽい視線が、こちらに向かってチクチクと刺さった。
「……彼女さん?」
 ぷるっとした唇がそう独り言ちるように呟く。ギクリとした。垂れさがった目つきは、流し目になるとやや冷たそうな雰囲気を受ける。太くしっかり描かれた眉がピンと片側だけ吊り上がった。その表情には、やや既視感があった。

「そ、可愛いでしょ」
「えぇ〜、研ちゃん! あたしとどっちが可愛い?」
「あはは……。あ、ごめん、ビックリしたよな」

 萩原は誤魔化すように笑ってから、女性の横に立った。横に並ぶと、ますます既視感が――。あ、と私は口元を押さえた。既視感の正体に気づいた瞬間、私は少しだけ淀んだ心が澄み渡るようにスッキリとした。

「俺の姉ちゃん。と、姪っ子ちゃんね」
「こんにちは〜。研二がお世話になってます」
 
 にこっと笑った垂れ目に、道理で見覚えがあるわけだと思った。萩原の顔つきにそっくりな垂れ目や厚い唇、しっかりと通った鼻筋、密度の濃い睫毛。笑った瞬間に人懐っこさがあふれ出るところまで、萩原によく似ていると思った。