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 萩原の姉だという女性は、萩原によく似た顔を私に向け、萩原に似た間延びした口調でゆったりと話す人だった。萩原曰く、姉も彼自身も母に似たのだと言う。何なら姪まで萩原によく似ているので、その遺伝の強さたるや。三人が横に並んでいると、萩原家の大中小が揃ったようで、少しだけツボに入ったのは黙っておく。

「ごめんねぇ、デート中にお邪魔しちゃって」
「いえ、おかげで原画集も買えたので……むしろありがとうございます」
「良いのよお。将来研二のお嫁さんになるかもしれないんだから」

 私とも姉妹でしょ、なんて彼女はニコ〜と絵に描いたような微笑を浮かべた。最近人気の伸びてきた個展の開催主の原画集。初日に売り切れたと聞いて諦めていたが、どうやら彼女の夫が作家と知り合いなのだとか。そんなおこぼれに預かったので、私は袋を抱えて胸を躍らせていた。
「ねえ、研ちゃん。あーんしてほしい!」
「お前ももう六歳だろ……しょーがねえなあ」
 パフェの上辺を掬ったスプーンが、少女の小さな口元へと運ばれる。少女に対するときの萩原の声色は、案外いつもより粗雑さが零れている。子どもだからこそ、彼の素が漏れているのかもしれない。
 苦笑いしながら、姫に傅く臣下のように言うことを聞いている萩原が微笑ましく、私は頬杖をつきながら僅かに口元を緩めた。萩原の、そういう根っこにある優しさが好きだ。もっと彼を知りたいと思わせる。

 甘く笑っていた萩原が、ちらりと此方を見た。彼はパフェ用の長いスプーンを私に手渡す。はい、と言われるままに受け取ったが、どうしたというのだろうか。スプーンを持ったまま固まっていると、彼は輪郭に対してやや大きめの口を小さく開いた。
「俺もあーんしてほしいな〜」
 私はぎょっとした。だって、隣では彼の実姉と姪が同じように食事をしているわけで。姉は慣れているのか、少女の口周りをナプキンで拭っていた。萩原はぱかっと口を開いたまま、ぎゅっと瞼を落として甘い刺激を待っている。

 私はなるべく素早く、小さく掬ったコーンフレークを彼の口に放り込んだ。指先が僅かに震える。口の端についた生クリームを厚めの舌が舐めとっていく。萩原はご機嫌そうにニコニコと笑って、恐らく羞恥心で赤くなった私の耳を眺めていた。

「……お姉ちゃん、研ちゃんのカノジョなの?」
「げほっ」

 その姿を真っすぐに捉えていたのだろう、萩原に似た垂れた大きな目つきが、私を見つめながら問いかけた。その言葉には、僅かに棘が含まれている。少女が萩原を好いているのは、先ほどの行動からもひしひしと伝わった。
 ――困った。子どもを相手に本気で妬いているわけでもないけれど、しかし否定する気にもなれなかった。ううん、と悩んでいたら、その静寂を破ったのは萩原だ。
「うん、みずきさんは俺の彼女だよ」
「研ちゃんには聞いてないもん」
「手厳しい……姉ちゃんに似てきたな……」
 笑った萩原の頬を、綺麗に整えられた爪がぎゅうと抓った。
「浮かれすぎ」
 ぐりぐりと捩じるように皮膚を伸ばしていくのを、萩原が手で押さえる。――浮かれているのか。私はその言葉が意外で、パチンと一度大きく瞬いた。確かに調子の良い事ばかり言うとは思ったが、萩原は普段から軽口が多いから。しかし、身内から見てそうなら、浮かれているのは事実だろうか。
 それが、どうしてか嬉しかった。私も大概浮足立っていたと思うが、萩原も同じなのかと思うと、口元が緩んでしまう。持ち上がる口角を隠せないまま、私はそれを誤魔化すように咳ばらいをした。
 
 チクリ、頬に視線の棘が刺さる。
 落ち着いてから見返すと、私を見つめる少女の瞳が、不安げな色を帯びていることに気づいた。小さな口元が引き結ばれている。先ほどから、手元にあるオレンジジュースもこれっぽっちも進んでいなかった。
 少女は、真剣なのだ。私たちが微笑ましいと、苦く笑ったことでも、彼女にとっては初めての感情で、初めての恋なのだ。私の初めての恋はいつだっただろうか。その心の苦しさは、覚えているよりずっとギュウと心を締め付けたかもしれない。

「……そうだよ。萩原くんと付き合ってるんだ」
「はぎわらくん……?」
「あ、えーっと、研ちゃんのことね」

 私はなるべく子どもに対するような柔らかすぎる口調にならないよう、普段通りを心がけて切り出した。その大きな瞳に、うるうるっと瑞々しい膜が浮かんでいくのが、しっかりと見えた。そんな泣き方まで、萩原によく似ている。
「でも研ちゃんは、君のことを嫌いになったわけじゃないよ」
「ほんと……?」
「うん。絶対に、大好きなまま」
 彼女の視線が、私から萩原に移る。萩原はその潤んだ瞳を向けられると、にこやかに頷いた。
「モチのロン。俺のお姫様だからね」
 ちゅ、とその微笑んだ口元が少女の柔い頬に落とされた。彼女は赤らんだ頬を押さえて、すん、と鼻を啜りながら頷いた。




 カフェで萩原の姉たちと別れると、私たちはゆっくりと帰路につき始めた。萩原がホームセンターが見たいと言っていたので、地元駅の近くにある量販店に寄ることにしていた。私の手を取った大きな指先が、冷えた指を擦りながら歩く。人の雑踏がまだ騒がしく構内に響く中、萩原は唐突に「ありがとう」と笑った。
「ごめん。初めてのデートで身内は重かったでしょ?」
「あはは、大丈夫。お姉さんも姪っ子ちゃんも良い人だったし」
「そりゃあ良かった。外面限定だけど」
「萩原くんにソックリ。ふふ、ちょっとおもしろいくらい」
 私が笑いを零しながら言うと、萩原は私と繋いでいないほうの手で耳たぶに触れた。――なんとなく、最近分かるようになった。彼がこうして耳たぶを触るときは、たいてい気まずかったり、何か言いたいことを我慢している時だ。

「どうかした?」

 私は、ふと彼に尋ねてみた。
 もし何かあるのならば、気兼ねなく言ってほしいし、できるだけは受け入れてあげたい。緩く巻いた髪が、自分の頬を擽った。それが少し鬱陶しくて、耳に掛ける。
「呼び方、戻っちまったなあと思って」
「呼び方……?」
「可愛かったのに。けんちゃん」
 思い出すように、大人びた顔が緩んだ。いつもよりも意地悪にニヤっとする顔つきを見て、私はやや顔が熱くなるのを感じる。あれは、説明をするために呼んだだけだ。私が真剣な話をしている傍らで、そんなことを考えていたなんて。
「もう呼んでくれねえの?」
「……なんかバカップルみたいじゃない」
「バカップル上等。俺はいつでも呼んであげるけどなあ」
 何が良い?――、なんてニコニコと尋ねられて、繋いだ指先にわざとギュっと力を入れた。萩原は大げさに「いで」と声を零して、拗ねたように厚い口をしゃくれさせた。

「なあ、駄目」

 ――拗ねながら、垂れた目つきだけがこちらに向いた。彼の方が背ははるかに高いと言うのに、私を見る時に上目遣いをすることが多いのは何故だろう。確信犯なのか、もとからそういう癖があるのかは分からない。
 けれど、少なくとも私がその顔に弱いのは確かだ。言葉に詰まりながら、少し悩ましく唸った。だって、【研ちゃん】だ。学生時代に付き合った恋人でさえ、そんな呼び方をしたことはなかった。二十歳を超えた人間が呼んでいい渾名なのかは、渋るところだった。

「……二人のときだけなら」

 悩みぬいた末に、私が出した結論はそれだった。さすがに松田がいる前や白昼堂々と呼ぶのは恥じらいが邪魔をするが、萩原がそれを望むのなら、できる限りは寄り添っていきたい。私は萩原の顔を真似るように口を尖らせてから、その羞恥心の行き場を探すように、控えめにヘラリと笑った。

「…………研ちゃん?」

 言いながら、自分でも息が抜けるように笑いが堪えられなかった。萩原はそれを聞くと、拗ねていた表情を一変させ、厚い肩を柔く私の肩にぶつける。見えない尻尾がはち切れんばかりに左右に揺れているような気がした。まるで大型犬の愛情表現だ。
 こんなに喜んでくれるのならば、バカップルもやぶさかではないな――。なんてくだらないことを考えながら、その後十回ほど催促された呼び名に、私は逐一応えていった。