28


 冬の厳しい風が、少しばかり春の陽気を運び始めた頃。歩く並木の枝が僅かばかりにつぼみを膨らませ、道行く人の服装に明るい色合いが増えた。ベランダを照らす朝日に欠伸を零して、布団を干す。鶯の鳴き声が、心地よく鼓膜を揺らした。

「みずきさん!」

 その心地よい声に混じり、馴染みのできた声が聞こえた。一瞬、聞き間違いかと思ったけれど、その声を探すようにベランダから顔を出せば、カーキのスプリングコートを羽織った萩原がこちらを見上げていた。春風に吹かれる艶やかな髪を、大きな手がふわりと掻き上げた。
 ベランダに腕をついて、マンションの下にいる萩原の姿を見下ろす。先日見た時よりも、顔回りの髪がすっきりとしている。「髪切ったの?」――、彼に届くように大き目な声で尋ねると、萩原は人差し指と親指をCの形に変え、私と同じように「ちょっとね」と声を張った。

「待ってて。今開けるから」
「いそがなくて良いよ。いきなり来て大丈夫だった?」
「全然、今日暇だったから」

 私がエントランスの鍵を開けて暫く、ドア前のインターフォンが鳴った。ぱたぱたと足音を鳴らしながら玄関に向かえば、肩につくほどあった髪が輪郭周りまで切られていた。長い時は色っぽさがあったけれど、短いと彼の大きな口やスッキリとした輪郭が際立つ。
「短いのも似合うね。良い感じ」
「はは、さすがに入校規定に引っかかるからさ。変じゃねえ?」
「そういうこと……。逆にその髪型で大丈夫なの?」
 首筋を擽るような髪先に、指でちょいちょいと触れると、萩原は苦笑いして「まあ」と誤魔化すように言葉を濁した。――大丈夫じゃないのだろうな、私はその顔を自分へコピーするように苦く笑う。今この長さでは、入校する時にはもう少し毛先が伸びているだろう。
「ま、イケるでしょ。丸刈りになるときは陣平ちゃんも一緒さ」
「松田くん可哀想……」
「可哀想なもんかよ。どうせ大目玉喰らうのは確実なんだから」
 ニヒ、と意地悪そうに笑う顔に、私も可笑しく声を出して笑った。確かに、松田のが先に罰則を食らうことは目に見えていた。誰彼構わず悔い掛かる青年だし、反対に萩原はそういった人間関係を円滑に進めるのが上手い。想像に容易すぎて、心配になるくらいだ。

「もう準備とかはできてるの?」
「ぜーんぜん。ま、準備っていっても、向こうじゃ制服とジャージだからね」
「そうなんだ……」

 確かに、一人暮らしとはまた少し違うか。警察学校のことはよく知らないが、毎年就職者がいるのだから、ある程度の生活環境は整っているのだろう。相槌をうちながら、彼をリビングへと招いた。フルーツフレーバーの紅茶を淹れ、カレンダーにちらりと視線を遣る。萩原と付き合ってから、一か月が経とうとしている。あと二週間ほどで、萩原は警察学校へ入校することになっていた。
「大学の卒業式とかは、被らないの?」
「ギリギリすれ違いって感じかな。そうだ、卒業式おいでよ」
「そんな小学校みたいな……」
「案外保護者が来る人もいるみたいだし。陣平ちゃんもいるしさ」
 ――まあ、でも悪くはないかもしれない。彼らのスーツ姿というのも一度目にしてみたいし、私は自分の仕事のスケジュールを頭の中で確認した。萩原が言うには、警察学校に行くのは三月末、実際に入校式があるのは四月の頭なのだそうだ。研修のようなものがあるのだろうか。
「えぇ、そういうのってどんな服で行くの? 礼服とか」
「なんでも良いんじゃない、可愛いから」
「馬鹿言わないでよ、恥ずかしい目にあうの私なのに」
 眉間に皺を寄せながら、カップをリビングへ運ぶと、ソファに座っていた萩原が「ごめん」と笑いながら謝った。大学なのだから、自分よりも若い人ばかりなのだ。浮いていたら、恥ずかしいではないか。
「あーあ、こんなふうに甘やかしてもらうのもあとちょっとかねえ」
「あはは、しょうがないなあ」
 隣に腰かけると、大きな体がこちらに向かってぐてっと凭れかかってくる。

 この一か月で分かったこと。萩原は、人肌が好きだということ。
 別に常時ベッタリとくっついているわけではないが、基本的にどこか一部分でも接点があるほうが落ち着くらしい。指先だったり、今みたいに肩だったり、時には膝だったりする。本当にちょん、と触れているだけの時もある。それで良いらしい。
 彼のそんな性格が、隣で眠る猫のような感じで、なんだか可愛い。

「自炊とかするんだよね、レシピ送っておこうか」
「それは助かる……でも、なるべく食べにこようかな」
「それでも良いよ。連絡くれたら用意しとくし」
「よっしゃ。でも、ゴールデンウィークまではお預けなんだよねえ」

 残念そうに萩原が眉を下げるので、私は目を丸くした。初耳だ。会えないと言っても、週末には会えると思っていたからだ。
「そうなの」
「最初は外出禁止だからね。自由になるのは五月の後半から」
「……そっか。やっぱり厳しいんだね」
 しまった、つい声が沈んでしまった。萩原は――きっと、気づいているだろう。もう少し言い様があったかも、私は自分自身の言葉を僅かに後悔していた。
 面倒くさいことを言ってはいないだろうか。それが心配で、ちらっと凭れた彼の表情を覗き見る。髪を切ってくれていて助かった、おかげでぼんやりと欠伸をしている萩原の表情が、隣からでもよく見えた。
 小さく安堵の息を零してから、私は頭の引き出しから話題を探した。こんなことで寂しがることを、萩原に察してほしくはなかった。できれば、私は大丈夫だから行っておいでと、にこやかに背を押したいものだ。

「あ、ねえ。萩原くん……」
「――ほーお、萩原くんね」
「……分かったよ。研ちゃん、来週空いてる? 好きな映画が公開されるんだけど」
「お、良いねえ。それ、サスペンスのやつだろ。人が一人ずつ消えてくやつ」

 私は萩原の述べた特徴に何度も頷いた。何で知ってるの、とも思い浮かぶ。映画館でも、少しローカルな映画館でないと公開されていない、吹替のない映画だ。画面も暗いし、女友達を誘うのもなあと思っていたところだった。
 萩原は口に出して「ふふ」と怪しげに含み笑いをしてから、財布を取り出すとペラリと二枚の紙っぺらを私に見せつけた。そこには、私が今しがた誘おうと思っていた映画のタイトルが印字あれている。驚きに、声が零れた。

「なんで!」
「みずきさん好きそうだと思って。前売り取っちゃった」
「け、研ちゃん〜!」

 私はその大きな体に抱き着いた。現金だと言われるかもしれないが、もはや衝動のままだ。私の体を抱きとめた大きな腕の中は、彼の香水と煙草の煙が染みついている。柔らかなニット生地に鼻を埋めると、背中に回った大きな手がトントンとあやすように背を叩く。

「萩原くん、そんなにサスペンスとか好きじゃないでしょ。良いの?」
「嫌いなわけでもないし、俺はみずきさんと出掛けるのが好きだから」

 萩原も映画を観ることは好きなようだが、彼と観る映画はたいていがハッピーエンドの純愛ものであったりとか、青春ものの邦画だったりとか。どちらかといえば陰鬱な雰囲気のものを好む私とは、絵面が真反対なのだ。
 きゅっと心臓が締め付けられるような感覚に襲われる。彼は、さして好きでもない映画の前売りを買ったのだ。――何のためかと言えば、それは私のためだと自惚れても良いだろう。それが嬉しくて、嬉しくてしょうがないのだ。

 萩原が警察学校に向かう日は、カレンダーの日付にチェックをいれている。その日付が伸びることはないし、彼の夢の邪魔をしたいわけでもない。ならば、それまでの短い期間を、なるべく大切に過ごしていこう。
 私は切りそろえられた彼の襟足を軽く撫でるようにしながら、口角を緩めた。