29

 自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、イヤフォンを外した。ブルーライトカット用の眼鏡を外し、テーブルに置くと、傍らでダラリとソファに寝転がっていた頭が寝返りを打った。こちらを見つめている瞳に、私は笑いながら頭を傾ぐ。
「どうしたの、呼んだ?」
「独り言。作業終わりそう?」
「あとちょっと……ごめん、暇だよね」
「別に良いよ。メシ買ってこようか悩んでただけ」
 何が良い、と萩原は携帯を弄りながら事も無げに言う。私が忙しそうにしていたから、それを気遣っているのだろう。今日のぶんの仕事が定時内に終わらず、持ち帰ったデータを整理していたところだ。いつもは萩原が家に遊びに来れば、できるだけ好きな物を作っていたけれど、それができなくても文句を一つ漏らさないところが彼の心根の優しさだ。
「うーん。牛丼」
「お、良いね。俺買ってくるわ、お仕事頑張って」
「ありがとう」
 彼はむくりと体を起こし、乱れた髪を軽く手櫛で撫でつけてから、のそのそと玄関を出ていった。

 今日は近頃でも特に温かく、部屋の中は冬仕様だと少し熱いと感じるくらいだった。私はぐるりと肩を回してから、立ち上がり寝室へ向かう。今はフリースの部屋着だったから、厚いスウェットくらいに着替えようと思ったのだ。長めのお尻がすっぽりと隠れる形のスウェットと、部屋着用のレギンス。
 ――彼氏と一緒にいるんだし、変じゃないよね。
 少し狙いすぎだろうか、やっぱりジャージに変えようか。頭を掻きながら、しかし容易に萩原がニコニコとご機嫌になる姿が想像できて、このままでいてみようかとも思う。ケトルの前で云々と唸っていたら、インターフォンが鳴った。
 私は慌てて脱ぎ散らかした先ほどの部屋着をくるくると丸めて見えないところに追いやり、玄関へ彼を迎えに行く。萩原が「何を着ても良いんじゃない」とよく言うのは間違いではなく、彼は私が何を着ても「これは格好良くて良い」「これは熊さんみたいで可愛い」と褒めそやすのだ。今度はどんな顔をするだろうか、なんて、楽しみにしてしまうのは可笑しいだろうか。

「お帰り、買ってきてくれてありがと……」
「これ、前の礼」

 がさりと酒の缶とテイクアウトした牛丼の袋を持っていたのは、くるくるとパーマのような癖毛を揺らす男だった。色眼鏡の向こう側に、子どもらしい大き目の目つきが笑っている。私が驚いてその姿を見て瞬いている間に、後ろから「松田!」と追うような声が聞こえた。

「クッソ、先行きやがって……。ごめん、みずきさん。途中でコイツに会ってさ……」
「良いよ、気にしないで。松田くんも一緒に食べる?」
「うわ、その部屋着可愛い……」

 ハァハァと息を切らせながらエレベーター方面から走って来た萩原は、玄関の重い扉に手をつき、一息ついてから私の姿を捉えた。ポカン、と緩く開かれた口元を、松田が「間抜け面」と揶揄った。
「馬鹿、松田は見んな」
「こら、そんなこと言わないの。私がこんな格好で出てきちゃっただけだし。すぐ着替えるね」
「勿体ねえ〜……、やっぱ連れてこなきゃあ良かった」
 萩原の言葉に苦笑いしながら、私は彼らを部屋に招き、自分はクローゼットからジャージを引っ張り出した。お尻や太ももは肉がつきやすくて、体の中でも際立って自信がないのだが、みっともないものを見せてしまった。浮かれていてごめん、と松田には心の中で謝罪しておく。

 私は全員分のお茶を注いでリビングへ持っていくと、松田が生意気そうな眉を僅かに歪ませた。
「仕事中だろ。別に良かったのに」
「もうちょっとで終わるから。松田くんも、卒業まであと少しでしょ」
「聞いたぜ、卒業式来るんだって」
 少しだけ恥ずかしく、はにかみながら割り箸を受け取った。三人で手を合わせ、曇ったプラスチックの蓋を外した。タレの食欲をそそる香りが部屋に立ち込めていく。レストランで食べるお肉も美味しいけれど、こういったファストフードも好きだ。懐かしい気持ちになるし、何より本能的な食欲を刺激してくる気がする。
「ねえ、他にも来る人とかっているの?」
「さあ。そういうの興味ねえ」
「そっか、行くって決めたのは良いんだけど、私だけとかじゃないよね……」
「いるっちゃいるだろ。俺らは謝恩会もでねえしな」
 ――松田と萩原は、大学の卒業式の後日が警察学校への入寮日になっていた。次の日に響かないように、謝恩会や飲み会には参加しないのだそうだ。大変なスケジュールだと同情しながら、薄っぺらな肉を頬張った。

「お前、マジで平気か」
「ん……。何が?」

 ごくりと口の中のものを喉に流し込んでから、私は尋ねる。松田も同じように片方の頬に詰めたものを飲み込んで、箸を振り回すようにして言葉を続けた。

「前も言っただろ。あの萩が一か月も会えねえなんて、今までの彼女ならリスカもんだ」
「……リスカ」

 馴染みのない言葉だったので、理解するまで数秒を要した。そういえば、初詣に行ったときに松田が同じようなことを警告していた記憶がある。――待てよ、ということは、だ。
「松田くん、あの頃から私が萩原くんのこと好きって思ってたの?」
「分かりやすいし、お前ら」
 当然、と鼻を鳴らす松田に、私は驚愕した。
 正直言って、今でもいつから萩原のことをいつから好きだと思い始めたのか、よく分からない。最初から、他の人とは違ったけれど、当時は心の底から友人だと思っていたし。

「言っとくけど、コイツ、彼女がいてもいなくても女にデレデレだからな」
「デレデレって……。別に鼻の下伸ばしてるわけじゃないぜ、普通だよ」
「荷物持ったり、ドア開けてやったり、一緒にメシ食ったりすんのが普通なあ」
「……レディファーストだろ。みずきさんいるから、メシは食わないし」

 なるほど、松田の話を聞いて、何となく想像はできた。確かに萩原はレディファーストだ。もしかしたら、彼の姉からの教えなのかもしれない。最初会った頃から、女の人に荷物は持たせないし、車道を歩かせない。エレベーターも後に降りるし、今でもデート代だけはと萩原が払っている。(払わせてくれ、と懇願された)
 頭の中でイメージした。私にしてくれたように、それらを他の女へしている様子。しかし、重たい荷物を持っている女の子を放っておく萩原など想像できない。こんなに優しい人なのだから。

「ありがとう、大丈夫そう」
「だとよ、萩」
「……なんか、それはそれでショックだなあ」
「妬くかもしれないけど、冷たく放っておくのも違うじゃない? 萩原くんのいろんな人に優しい所、好きだし」

 それは、半分自分に言い聞かせるような言葉だった。
 嫉妬心が薄いほうかと言われたら、そうでもない。たぶん、今までの彼女たちのように、私だけを見ていてほしいと思うだろう。人並みに、独占したいとも感じるかもしれない。けれど、私は萩原に萩原らしさを我慢してほしくはなかった。
 私がそうであるように、彼が彼のままであることを受け入れたい。そんな関係でありたいと思ったのだ。そのために、多少なりと我慢が必要なのは、しょうがないことだ。

 笑いながら言うと、萩原の長い腕が私の頭をすっぽりと抱きしめた。私は真っ暗になった視界と、鼻をくすぐる彼の香りに、困惑しながら二の腕を軽く叩く。松田はさして気にする男じゃないが、私が恥ずかしいのだ。
「嫌だと思ったら言って。絶対だぜ」
「分かったよ、分かったから……。ねえ、人前ではやめてよね」
「松田はノーカンだろ」
「言いやがったな。おい、橘、ソイツの髪引っこ抜け」
 松田がビシっと箸で萩原の頭を指した。私は笑いながら「行儀悪いよ」とその箸先を宥めると、松田は少しだけバツが悪そうに口を尖らせていた。