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 萩原の大学は、私の地元駅から数駅。キャンバスへは少しの坂道を登った場所にある。その坂道を、袴やスーツを身にまとった、めでたい背中が登っていくのを見上げた。何せめでたい日だ、道行く人の顔はどこか浮足立つように、朝日の光をキラキラと浴びていた。ほんの数年前のことだが、懐かしいな。私も懐かしさに思いを馳せ、パンプスを鳴らして坂道を登った。

 萩原の言っていた通り、講堂の後ろにある席にはぽつぽつと身内の姿がある。それこそ全員ではないだろうが、少なくとも私だけではなかったことに感謝しておこう。萩原たちも謝恩会に出ない分、朝や日中は積もる話があることだろう。ついクセで開式前に来てしまったが、もしかしたらもう少し後でも良かったかも、と思った。

 すとん、と誰かが私の横に腰を掛けた。
 こんなにも席が空いているのに――そう思いながら傍らを横目で見ると、人懐こく笑う顔がこちらを見ている。私は驚きながら、しかし自分でもその目が輝くのが分かった。
「すごい、大人っぽいね! ビックリした」
「どうも〜。みずきさんも今日は大人っぽくて綺麗」
 普段から大学生にしては大人びているほうだと思っていたが、やはり彼にはフォーマルな服装がよく似合う。ネイビーのシャツやパンツはすらりとした体型に映えたし、普段はその顔を隠すような長髪も(切ったけども、男にしてはまだ長いので――)、今はワックスで整えられていた。
 松田にしょっちゅう「あまったりい」と揶揄られる、印象深い華やかな顔つきが、今日はサービスだとばかりに全面に押し出されていた。同時に、これは間違いなく記念撮影に追われることだろう――と予想がつく。自分の学部にいた華やかな男も、卒業式はここぞとばかりに人から足止めを食らっていた記憶があった。

 ――それを考えると、少しだけ心がモヤっとする。同時に、いやいや、気にしないと決めたばかりだと感情を否定する自分がいた。別に萩原が好んで女のもとへ行っているわけでもあるまいし、第一彼が浮気するだなんて欠片にも思ってはいない。遊んでいる風な顔をしているが、一か月間付き合って接する彼は実に誠実な男だ。
「何考えてんの?」
 私が暫く押し黙ったせいだろう。萩原はこちらを覗き込むようにして尋ねた。大きな耳、軟骨の固さを想像させるような分厚さがある。ワックスで濡れっぽくなった黒髪が、もみあげから少し零れているのに視線が向いた。

「ううん。すごくモテそうだな〜と思っただけ」
「やっぱりぃ? ……嘘、嘘。研二くんは一筋だから」

 顎に指を当てて格好つけてから、急に不安になったのか、萩原が慌てて弁明をしだした。それが可笑しく、だけど安心する。私が思わず笑ったら、萩原もそれを見て安心したように、いつものようにゆったりと笑みを浮かべた。





 萩原の背中は、後ろから見ていても、同年代の子たちより広く頭が一つ抜けていた。普段は少し猫背気味に歩く彼だが、今日ばかりは背筋をピンとさせて前を向いている。だからこそ、その背丈がよく分かった。
 開式の直前に、堂々とど真ん中を通って入場した松田も、後ろから見ていて飛びぬけて目立つ。――態度が。とてもじゃないが、今日が門出の日だとは思わせないような背中をしていた。足は前方のパイプ椅子まで投げ出されていたし、時折コクンと癖毛頭が落ちるので、たぶん寝ている。――まあ、それが彼らしいといえば、そうかもしれない。

 かくいう私も、卒業式自体を鮮明に覚えているわけじゃあなかった。大学の卒業式なんて、その後が本番のようなものだろう。在校生の代表から言葉があり、学校長から祝辞を読まれ、その年流行りの感動的な曲と共に退場する。テンプレートみたいなものだ。
「……ふっ」
 萩原が、祝辞の最中に大きく欠伸をするのが分かった。つい笑ってしまって、周りには誰もいないというのに一人肩を竦ませる。
 その笑いが、まるで萩原のもとまで伝わったように、伸びをした横顔がこちらを振り返った。私を振り返る時に、その背筋が少しばかり丸まる。可愛いな、と思ってしまった。
「まえむきな」
 空気を震わせない声で、ちょいちょいと前方を指さす。萩原は軽くウィンクを飛ばして人差し指と親指でオーケーサインを見せてから、前を向きなおした。
 両隣に座っていた学生が、ちらりと此方を振り返る。見覚えのない顔だ――当たり前だが。目線があった気がして、なんとなく会釈をした。すると萩原のほうへ肘を突く姿が見える。
 しまった、余計なことしたかなあ。別に何か言われたわけでもないし、無視しておけば良かっただろうか。
 悩ましく思っているうちに、卒業生が退場していく。私も両手を叩いて彼らを見送りながら、その行く先へ視線を向けた。綺麗な快晴だった。
 
 もうすぐ来る春の訪れを思わせるような、真っ青な空。講堂の扉が開くと、爽やかな風が室内に吹き込んだ。青い空へ向かう萩原の背中を見て、なぜだかじんわりと涙が浮かびそうになった。
 ――大げさかもしれない。何を、そんな親みたいな。
 自分でも、それが感動だったのか感傷だったのか、景色に心を打たれたのか――。分からない。でも、僅かに転がり込む春の香りが。青々とした未来のような空が。雨が似合うと思っていた背中に妙にしっくりときて、心が震えたのだ。
 雪解けのような、あたたかな気持ちだった。願わくば、彼の夢が無事に叶いますように。優しく穏やかな彼が大切にする正義を守り抜くことができますように。

「――みずきさん!」

 出ていく直前に、彼が私の座っていた席を振り返った。ふわっと微笑んだ姿は花が咲くようで、私はやっぱり涙を浮かばせてしまったのだ。




「橘」

 とん、と凭れるように肩を叩かれた。振り返ると、片側の口角をニヤっと持ち上げた不敵な表情が出迎えた。「泣いてただろ」、松田はニヤニヤとしながら私の腕を肘で突く。否定することもできず、図星のままに笑ったら、彼はわざとらしく祈るように指を組んだ。

「愛しの研二くんの門出だもんなあ、そりゃ悲しいぜ」
「揶揄わないでよ、松田くんもおめでとう」
「どーも」

 ――その返し、今朝も聞いた気がする。本当に、仲が良いというか。双子は言動がシンクロするというが、彼らの行動も中々だ。幼馴染って、そういうところも似ていくんだろうか。自分の友人を思い出しながら考えた。

「こんな早くこっち来て良かったの? 友達と話したりするでしょ」
「だから、そういうの興味ねーんだって。仲の良い奴らとはもうしこたま送別会したしな」
「そうなんだ……。もしかして、それで遅刻寸前だったんでしょ」

 言えば、今度は松田が少し言葉を詰まらせた。松田と萩原は大学こそ同じだが、学部が違う。大学内ではそれぞれ、別の友人がいるのだそうだ。松田の通う工学部は圧倒的に男の割合が多く、同期たちの仲も良いと萩原に聞いた事があった。

「あいつらが飲ませるだけ飲ませて、さっさと退散したせいだっつの……」
「あはは、また寝ちゃったんでしょ」

 酒が入るとすぐに眠りこけてしまう松田が置いていかれるのは、容易に想像できる。萩原も、以前置いて店を出ていたっけ。今思えば、悪いことをした。

 松田といくつか話をして暫く、後ろから重たいものが圧し掛かった。首元に回った腕と、ふわりと香った彼の香りで、すぐにその人物は分かる。整えた髪のテッペンに、ぐりぐりと顎を押し付けられる感覚がした。
「思ってたより早かったな」
「本当だ。もうちょっと帰ってこないと思ってた」
「集合写真は撮ったからね」
 頭上を見上げるようにすると、太い眉と優し気な視線が柔く笑む。私もその瞳に応えるように笑ってから、手に持っていた紙袋を彼に渡した。

「はい、これ。卒業おめでとう」
「……え? 俺にくれんの?」
「もちろん。あ、こっちは松田くんに。大したものじゃないけど」

 さすがに萩原と同じようにというわけにはいかず、ついでにようになって申し訳ない。松田に渡したのは、彼がよく着ているダウンジャケットと同じブランドのスニーカーだった。松田は珍しく顔を輝かせて、「サンキュ」とニヒルな笑みを浮かべた。
「なにそれ、ずりぃ〜……」
「まあまあ」
 ジェラシーの籠った瞳で松田をねめつける姿を宥める。萩原はやや不服そうに、贈った包装を解いていく。黒いギフトボックスを開くと、眩い光がシルバーを反射した。黒い文字盤に時を刻むキラリと光った秒針。

 萩原はそれを眺めて――泣いた。

「えっ、ちょっと、なになに」

 あまりに急に零れた一筋の雫に、私は動揺した。てっきり、松田のように顔を輝かせてくれるものだと想像していたのだ。慌ててその大きい肩を摩ると、萩原は零れた雫を意外そうに指先で掬った。彼自身も、よく分かっていないような表情だった。

「……ごめん。なんか、綺麗だったから」

 ――と、恥ずかしそうに笑う。
 けれど、私にはその気持ちが分かるような気がした。それほど、泣きたくなるような晴れ晴れしい空模様だったのだ。「うん」、私は静かに頷いた。