31

 
 朝早くに目を覚ました。まだ気温は低く、零した息は白くけぶる。
 カレンダーについた印を見て、私は緩慢に体を起こす。――今日は、彼の本当の門出の日だ。萩原が、警察学校に入寮する日。見送りに、車で送っていく約束をしていた。
 少しだけ、憂鬱だ。憂鬱になってはいけないと自分に言い聞かせながら、それでもフローリングを歩く足取りは自然と重たい。顔のむくみをとりながら、鏡に向かって身支度を始めた。

 萩原と過ごす日々は、私が想像していたよりずっと色鮮やかで、しかしどこか落ち着いていた。毎日目まぐるしく変わる恋ではなくて、ゆったりと、じんわりと温もりを感じるような感情。居心地が良くて、だけど一人の時とは違う刺激があった。穏やかで温かな日常だったからこそ、それを手放すのは惜しい。体温を吸った掛布団みたいだ。私はまだ、その布団に包まっていたかったのだと思う。

 静かに一つため息をついた。
 別に萩原を責め立てているわけではない。彼の将来のためであり、別に警察官になることには肯定的だ。萩原らしいと思う。
 完全に、私自身のエゴだった。端的に、シンプルに言うのならば――寂しい。萩原に会えなくなると思うこの一か月と少しが、寂しくて堪らない。
 今日家に行っても良い、というメールがないこと。
 手作りのハンバーグを食べて、まるでミシュランレストランかのように頬を綻ばせる姿が見れないこと。
 駅前で、「みずきさん」、と唐突に肩を叩かれるようなこともないこと。
 一つ一つ、この数か月で積み重ねた彼の面影を、暫く見ないと思うと憂鬱なのだ。――という、折角の彼の夢への一歩を、マイナスの感情を芽生えさせている自分に対しても憂鬱だ。

 いやいや、駄目だ。
 私がこんなふうでは、良くない。笑顔で「頑張ってきて」と背中を押してあげないと。私は自分に言い聞かせ、髪の毛にアイロンを通した。暗く染めた色が、少し落ちてきている。美容院行かないとなあ、髪の先を摘まみながら、私は考えた。





 マンション前にハザードを焚いて待っていると、ボストンバッグを背負った姿がエントランスへ降りてきた。卒業式とは違う真っ黒なスーツに身を包んだ萩原は、助手席の扉を開けてニコリと笑った。
「おはよう。いやあ、ありがとな」
「大丈夫。行く前に会いたかったし」
「俺も」
 穏やかに、サラリと言ってのける台詞が、今日はやけに嬉しい。私は緩みかけた頬を堪えて、ハンドルを握った。松田も一緒に拾っていく予定なので、彼の最寄り駅へナビを合わせる。アクセルを踏み込もうとしたとき、萩原が「待って」と声を掛けた。
 私は思わずもう一度ハザードを焚いて止まった。らしくもなく声を荒げた様子に、私は萩原の方を振り返った。私が驚いた顔をしていたのだろう、萩原はハっとしたように謝りながら、ふにふにと自らの耳たぶを弄んだ。
「どうかした?」
「ん、あー……いや。一回弁明させて。昨日急遽買いに行ったからさ、本当はもうちょっと良いもんが良かったんだぜ、だけど店も開いてないとこばっかだったし……」
 ごにょごにょと言葉を濁す姿は、本当にいつもの彼らしくない。私は傾げていた首を更に斜めに傾けていく。私は目にかかる前髪をさらっと避けて、彼の視線を開けた。
「良いよ。言ってみて」
 何か言い訳を探したいような様子に、私は微笑んだ。
 萩原は、大人びた風をしているが、割かし年相応なところが偶に覗く。こと女の前においては、なんというか――彼は格好つけ≠ネのだ。ロマンチストともいう。私にした告白を、後にもう一回やり直したいと頭を抱えていたことは、松田から伝え聞いた。
 そんなところが、萩原らしくて好きだった。きっと、今言葉を濁しているのも、彼なりの美学に反する何かがあるのだろう。
 
 彼は太い眉を、何とも言いづらそうに下げてこちらを見上げた。
 それから、ボストンバッグから一つの紙袋を取り出し、私に手渡した。あまり見たことのないブランド名だ。赤い紙袋に、金の箔押しでアルファベットが印字されている。
「私に?」
 こくり、大柄な男は、それはもう小さく頷いた。
 私はその包装を解く。白いレザー調のギフトボックス。開けると、ちょこんと光を放つのは、今着けているよりも少し小ぶりな、シルバーの腕時計だった。シンプルなデザインだったが、レディースらしい華奢なラインをしている。

「時計、貰ったらさあ。みずきさんにも俺と同じ時間を見て欲しいな〜って思って……」

 あはは、と頭を掻き笑いながら萩原は言う。
「ごめん、本当に大した値段のものじゃないんだ。みずきさんがくれた奴より安物だし……でも、デザインは結構真面目に選んだつもり」
「……うん」
 するりと本体を持ち上げると、細めのベルトがしゃらりと垂れた。小さな文字盤の中で、小さな秒針が一秒、また一秒と回っていく。それを両手で持ったら、じわじわと視界が濁っていくのが分かった。瞬くと、熱い雫がぽろっとシートに落ちていった。

「……これで良い」

 私は、今の感情をそのままに、衝動的に言葉に紡いだ。吐き出した声は、少し咽たようになってしまったかもしれない。
「私、これが良いよ」
 泣きながら、私は小さな腕時計を抱きしめていた。嬉しかった。彼の左手についたシルバーの時計と、同じ光を放っているように思えた。
 太い指先が、私の頬をすっと拭う。温かな体温は、指に触れただけでもよく分かる。萩原は私の手から腕時計を攫うと、私の右手首に静かに巻いた。器用な手つきが、少しの乱れもなくサイズを調整する。

「……はい、ピッタリ」
「ふ、指輪じゃないもん。当たり前じゃない?」
「そこは、まあ、空気だろお」

 言えば、萩原は私の目じりに軽くキスを落とす。涙が滲んでいたから、しょっぱかっただろうか。温かくて、厚くて、でも少し固い唇だ。
「ま、見てて。ちゃあんと立派になって帰ってきますから」
「一か月ちょっとで?」
「モチのローン。本気出せばやるのよ、俺って」
 に、と子どもっぽく口の端が引っ張られる。私はその表情に笑って、悪戯っぽい口角に唇を落とした。――思えば、自分からキスをしたのは初めてだったかもしれない。萩原は驚いたように指で口端をなぞってから、私の首にぎゅうっと抱き着いてきた。

「俺、本当はマ〜ジで寂しい……」
「……寂しいの?」
「だって、みずきさんのメシ食えないし、みずきさんの顔見れないし、みずきさんに甘やかしてももらえねえし……」
「ふっ、あはは! なにそれ、幼稚園に行くわけじゃないんだから」

 大きな背中にトントンと手を当てながら、私は笑った。彼の香りがする。香水と、煙草と、整髪料。萩原の匂いだ。私はその髪に軽く鼻先を埋め、体温をしっかりと味わった。
 そうか、寂しいのか。彼もまた、寂しいんだ。
 同じ気持ちを持っていたことが、私は嬉しい。大丈夫、まだ頑張れる。
 ぎゅうと抱きしめた体温を味わっていると、萩原の携帯が鳴った。着信音に驚いてぱっと体を離すと、萩原は軽く舌を打ちながら携帯を覗く。

「はいはい、どちらさん」
『今どこにいんだよ、彼是三十分待ってんぞ』
「うわ、松田くん! ごめん、今行くね」
「たかだか三十分だろ。陣平ちゃんがいつもする遅刻にくらべりゃあ、安いもんだ」

 鼻を鳴らすように萩原は笑ったが、さすがに申し訳ない。迎えに行くと言ったのは私だった。萩原が携帯に向かって「邪魔すんな」と言い捨てるのを苦笑い交じりに聞きながら、私は今度こそハンドルを握った。

「……みずきさん」
「さすがにこれ以上待たせちゃ可哀想だよ、迎えに行こ――」

 う、という口の形を、萩原の唇がふにっと塞いだ。
 ぱちぱちと瞬いて、私は顔がぐわっと熱くなるのを感じる。触れ合ったままの彼の唇は、にんまりと笑みを浮かべていく。沸騰しそうな私をさて置いて、萩原が悠々と煙草を吸い始めたので、私は頭を抱えながら窓を開けた。爽やかな風が、車内に吹き込む。

「お、春一番」

 にこやかに、萩原が前髪を靡かせていた。私は顔の熱を冷ましながらも、その横顔に、ふと微笑んでしまっていた。