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 ちらちらと、雪のように降り注ぐ花びらを見上げた。
 春の陽気は暖かくて、小さく欠伸を手のひらへと零す。新しく下ろしたばかりのベージュのパンプスは、アスファルトを小気味良い音で鳴らした。四月も半ば、この間までコートが一枚必要だったというのに、すっかり薄手のカーディガンで事足りるようになってきた。

 ブラウンのカーディガンの袖口からは、銀色の光が覗く。私はそれを眺めて、ひっそりとほほ笑んだ。花粉症がひどくて、この季節はいつもマスクをつけていたから、ちょっとくらいの表情の変化は構わないだろう。
 萩原が警察学校へ入校し、半月ほどが経つ。あれから自分なりに学校のことを調べてみたが、萩原が学校へ向かった【着校】と、正式な【入校】は別の物なのだそうだ。何でも、その間に素質のない者を振り落とすように、厳しい一週間を迎えるのだとか――。今現在、彼が顔を見せないということは、無事に入校できたのだろう。ひとまずはそれを喜んでいた。
 あれだけ毎日のように届いたメールは、今はぱったりと止んでいる。携帯電話も、最初のほうは限られた時間しか許可をされないこともあるらしい。着校する前に、松田がぼやいていた。
 寂しくないと言えば全くの嘘だけれど、それでもこの時計の秒針が彼と同じ時間を刻んでいると思えば、それを紛らわせることができた。彼も寂しくはないだろうか。怪我をしていないと良いのだけれど。文字盤をなぞりながら、そんなことに思いを馳せた。


「橘さん、おはようございます」

 びくり、と肩が震えた。少し惚けていた頭を戻して、私は目の前にいる青年に笑みを浮かべる。職場にも、新しい顔が増えた。フレッシュなリクルートスーツを見て、萩原を思い出した。
「おはよう。朝早いんだね」
「家が近いので……橘さんも早いですね」
「始業前に少しスイッチ入れる時間が欲しくてね……」
 特に最近、温かくなってきたから――。そう笑えば、目の前にいる青年も確かにと相槌を打った。大学を卒業したてとは思えないほど素直な青年だった。そういえば、萩原と同い年なのか。このフレッシュさを目の当たりにしてしまったら、自分が彼と付き合っていることへほんの僅かに罪悪感があった。ひとり心の中で遠くにいる彼に謝罪しながら、私は始業の準備を始めた。





「みずき! こっちこっち」

 同期の姿を見つけて、私はやや足早に駆け寄った。今日は社食ではなく、会社から少し離れたカフェでランチの約束をしていた。四月から担当部署が離れてしまった桐嶋だが、昼は変わらずにこうして食事を楽しんでいる。有難いことだ。
 ランチ時で込み合った店内を眺めながら、私は彼女の向かいに腰を下ろした。春らしい、煌めくようなパステルカラーが爪を飾っている。ネイルの話題を振れば、桐嶋は気の強そうな顔を綻ばせではにかんだ。

「彼氏クン、まだ連絡ないの?」
「うん。忙しいんじゃないかな」

 ランチセットのパスタをフォークへ絡めながら軽く話せば、彼女は太く描かれた眉を歪ませた。
「半月間メールもないんでしょ。大丈夫、それ」
「……大丈夫って?」
「そりゃあ、他に女ができたとか」
 訝し気に告げられた言葉に、松田の声が重なって聞こえた。デジャヴを感じて、ふっと噴き出してしまった。彼女はちょっとだけ機嫌を損ねたようにして、「笑わないでよ」と言う。
「ごめん。……たぶんね、大丈夫」
「そうはいってもさあ」
「そりゃ、付き合いは浅いけど……そんな気がするだけ」
 ちらりとシルバーを見遣りながら微笑むと、桐嶋は軽く息をついて「なら良いけど」とイタリアンソーダに口をつけた。言い方こそ厳しいけれど、彼女は心配しているのだ。私が前の彼氏の一件で職場に引きずるほど落ち込んでいるのを、一番間近で見ていたのは桐嶋だから。優しい同期に礼を述べて、クリーム味を舌の上で楽しんだ。




 日差しの高い帰り道を歩く。年始は、仕事もまだ忙しくなく、足取りも軽い。新入社員も皆素直で物覚えがよく、良い子ばかりだ。今日は何を作ろうか――なんて頭の中でレシピを思い浮かべながら、エントランスを登った。

 朝取り損ねた新聞と、数枚のチラシをポストから取った時に、ぺらりと足元に薄っぺらい封筒が落ちた。請求書や書類にしては、あまりにチープなもの。手書きの文字とノリでとまった封筒を見るのは、学生以来ではと思った。
 私はそれに首を傾げながら拾い上げる。封筒には、私の名前が、ハネや払いが大げさなまでに協調された癖字で書かれていた。
 ぺらりと封筒を裏返して――私は鼓動が大きく打つのが分かった。萩原研二、送り主の欄にはそう書かれていた。萩原からの手紙。嬉しくて嬉しくて、私は半月分の感情が爆発するように階段を上がった。いつもだったらエレベーターを使うのに、なんだか逸る心を押さえられなかったのだ。

 息が切れる。足がもつれそうになる。それすら愛おしいように思いながら、ひたすらに階段を駆け上った。トクトクと早く打つ鼓動は、私の感情なのか、息切れなのか。キーケースから鍵を出して、落ち着かない手つきで鍵を開ける。新しいパンプスだなどと関係なく脱ぎ散らかして、荷物をソファに放った。

「……はぁ」

 零れた息が、喜色に満ちる。封筒を両手で握って、大きくソファに座り込んだ。ストッキングを履いたつま先をパタパタと足踏みさせて、私は何度もその送り主を見直した。萩原研二――一字として間違いはない。確かに、そう書かれている。

 にやけてしまう頬が押さえることもできなくて、まあ家の中だから良いかと思う存分ニコニコと頬を綻ばせていた。鋏を取り出すと、私は片側の刃を使って封筒の上部を切り開ける。
 封筒の中を覗けば、便せんが二枚。何の変哲もない、螺旋だけが書かれたものだった。

【みずきさんへ。
 連絡が遅くなってごめんね。暖かくなってきたけど、風邪は引いていませんか。
 みずきさんは偶に薄着のまま居眠りするから、心配です。ちゃんと温かくして寝てね。

 俺は無事に警察学校に入校しました。萩原研二巡査です。
 髪の毛も無事に丸刈りされずに過ごしているところです。(ちなみに、陣平ちゃんも)
 学校内では、学生じゃなくて一警察官。
 びっくりするほど学ぶことも多いけれど、びっくりするほど厳しいです。
 もうすでにみずきさんが恋しいけど、なんとか我慢してる。
 班員は愉快な奴らばっかりなので、今度紹介するね。
 陣平ちゃんも仲良くやってます。たまに殴り合うけど。
 
 みずきさんは、どうですか。
 四月ってことは、また新しく社員さんが入ったりするのかな。
 イケメンはいますか? いたら困るなあ。
 ぜひ、俺よりイケメンはいないって思ってくれると嬉しいです。
 
 新しい友人が手紙を書いていたので、その手があったか! って、パクってみました。
 メールとは違うけれど、新鮮で良いね。
 ゴールデンウィーク明けには、外出できるから、会いにいくよ。
 またメールで連絡します。髪型の罰則で没収された携帯が、今週末には返ってくるはず。
 
 手紙を書いていたら、なんだか寂しくなってきた。
 早く会いたいなあ。ハンバーグが食べたいです。 萩原研二】

 二枚の便せんと――もう一枚。萩原と松田が生意気そうに笑ってこちらを見ている写真が入っていた。入校式の時の物だろう。二人とも、かっちりとした制服に身を包んでいる。誇らしそうなその姿勢と視線を見て、私も彼らと同じように笑っていた。
 その写真が、彼らは何も変わることなくそこにいるのだと伝えてくれる。
 傘を差しだしてくれたあの日のまま。子どもの前で煙草を消したあの日のまま。青色を身にまとって、そこにいる。自分のことのように、私はそれが誇らしい。

「ハンバーグ、練習しておこうかな」

 私は冷蔵庫の中身を確認すべく、ソファを立つ。こんなにも、ゴールデンウィークがいらないと思ったのは、生まれて始めてのことだった。