33


 五月。連休が明けて、最初の週末。私はその日が待ち遠しくて、愛おしくて、ひたすらに機嫌が良かった。普段は少し億劫に感じるような仕事も肩を軽くして過ごせたし、他の社員が厭味そうに「イケメンな彼氏とどっかいくんですか?」なんて揶揄ってきても「そうです」とにこやかに返事をした。
 こんなにも時計の秒針を遅く感じたのは初めてだったかもしれない。ちらちらと終業の時刻を確認しながら、私は定時を迎えると荷物を引っ手繰って、駅まで小走りで急いだ。本当は地元の駅で落ち合う予定だったけれど、待ちきれなかった。曰く、寮を出るのが夜の七時ごろ――今から向かえば、間に合う。
 乗り継いだことのない電車を乗り継いで、私は彼の通う警察学校の最寄りへ向かった。警察学校――というと厳しいイメージがあるので、勝手に規則に触れても可哀想だと思い、さすがに学校の前までは行かなかったけれど。
 
 腕時計を眺める。六時過ぎを指した分針に、少し急ぎすぎたかと苦笑を零す。ロータリーにあるベンチに腰を下ろす。春で良かった、日も傾いていたが、座っていても苦ではない気温だ。寧ろ、西日が気温を上げて心地よいくらい。
 携帯プレイヤーから繋いだイヤフォンで音楽を聴きながら、僅かに微笑んだ。だって、あと少しで会えるのだ。同期が、惚れたら一直線だ――と言っていた言葉を思い出し、確かにと肩を竦める。
 最初にどちらが好きだったとか、そういうことなど捨て去るくらいに、私は萩原のことを好きだと思っていた。流行りのラブソングを聴きながらぼんやり彼の顔を思い浮かべる――なんてのは、さすがに若すぎるか。自分の年齢を考えて苦笑いが浮かぶ。

 ハンバーグの種は仕込んできたけど、作っておいたほうが良かったかな。そう考えながら、でも焼き立てのほうが美味しいし――なんて自分の頭の中だけで葛藤した。

 ベンチに腰を下ろして、何分が経ったか。
 ずいぶんと短いようにも、長いようにも感じる。彼と待つ時間だと思えば短いものだが、その待ち遠しさが時間の流れを遅くした。少し眠たくて、うとうとと船を漕いでいた――と思う。正直その心地よさに負けて、意識が遠くにあったものだから。
 とんとん、と肩を叩かれてハっと顔を上げる。世界から音が失われたと思った矢先に、イヤフォンを誰かが耳から引っこ抜いた。

「大丈夫ですか?」

 怪訝そうにこちらを覗き込んだのは、萩原を上回るほどの大男だった。
 がっちりとした体と高い上背、一見強面といっても可笑しくないが、どこか人が好さそうな面持ちをしていた。太い眉が下がって、私を心配そうに覗き込んでいる。私は口元を擦り、涎が垂れていないか確認するとぶんぶんと首を横に振った。
「す、すみません。ちょっと居眠りしちゃって……」
「いえ。でもこんな夕方に、体冷えますよ」
 確かに、彼の言う通り、差した日差しは記憶の中よりもだいぶ傾いていた。空は橙と紫が入り混じったような、不思議なグラデーションで彩られている。
「ちょっと、人を待ってたんです」
 へらり、と。初対面の人に見せるには、だいぶだらしのない笑顔になってしまったかもしれない。男はその角ばった輪郭の中で、大き目な口をフっと綻ばせた。見た目は私と同い年くらいにも思えたが、私はふと彼が着ている真っ黒なリクルートスーツに目が入った。
 もしかしたら、と思ったのだ。この近くには大きな会社もないし。
「……その、もしかして、警察学校の生徒さんですか」
「そうか、今日は初めての外泊日だから――」
「あはは……。もう、他の生徒さんも帰ってきますかね」
「ああ。もうチラホラ出てきてる奴もいるよ。一部、反省中で遅くなるだろうが」
 はは、と笑う男に、私は彼の言葉をオウム返しにしながら首を傾げた。男は呆れたように笑いながら、手を腰に当てる。
「ウチの教場の奴なんだけどな。掃除サボって吸ってやがったから」
 彼は人差し指と中指で何かを挟むようなジェスチャーをした。そうなんだ、と笑いながら――少し、嫌な予感がした。いやいや、さすがに違うだろう。喫煙者なんて、ゴマンといるだろうし、彼らはもう少し要領よくやる男のはずだ。

 しかし、その嫌な予感が振り払えず、私は目の前の男に尋ねた。

「あの……罰則受けた人って――」


 ◇


「そうか、君が萩原の……」
「すみません。なんか……なんか……」
「橘さんのせいじゃないさ。多分教官だけだったらバレてなかっただろうし――、とんでもない正義漢もいたもんだからな」

 伊達、と名乗った青年は、目の前で氷の入ったグラスを軽く揺らした。駅のすぐ隣にあるカフェレストランは、恐らく学生向けなのだろう、安価な料理たちのメニュー表が並んでいる。
 さすが警察官の卵というか、伊達もどうやら困っている人を放っておけない性質らしい。萩原が来るまで一緒に待つと、私がどんなに遠慮しようと歯を見せて笑って言い切られた。彼曰く、「まあ、一部見切れなかった俺の責任でもあるから」――らしいが。彼は本当は生徒でなく上司か何かなのだろうか。

 彼が話すことには、罰則を受けているのは萩原と松田。二人して煙草休憩を取ったのち、同じ班の正義漢君に証拠を言い当てられて罰則中らしい。トイレ掃除が終わったら出てくるだろう、伊達は声を上げて笑いながら言った。
 それにしても、ルールと破ってトイレ掃除って。それを実行している二人を思い浮かべたら可笑しくて、だけどなんだかしっくりときた。事実、彼らは二人でいると時折小学生じみたことを言うから。

 互いに一杯ずつ注文したコーヒーを飲みながら、会話がないのも気まずくて、警察学校の話を聞いた。どんな授業があるのか、とか。どんなご飯がでるのか、とか。その生活を萩原も送っていると思えば、なんだか楽しくもなってくる。
 
 お互いのコーヒーカップが底を見せたとき、メールの着信音が鳴った。私はぱっと画面を一瞥する。萩原からだ。精いっぱいの謝罪と、今から行くという短い文字。いつもは丁寧に、口調と同じような柔らかな文面をしているから、きっと焦っているのだということが伝わった。

「終わったみたいだな」

 彼はニっと口角を上げてから、スーツのジャケットを背もたれから取って羽織る。私がコーヒー代を渡そうとすれば、伊達は軽く首を振った。
「良いよ。また今度世話になるかもしれないし……」
「いや、でも」
「俺にも大切な人がいるんだ。今度一緒に話してやってくれ」
 多分、アイツのことも待たせてるから。――伊達はその大きな手で軽く私の肩を叩いた。さすがに悪いとも思ったが、先ほどカフェに入るまでにも彼と押し問答をしたので分かる。伊達は、相当な頑固者なのだ。もちろん、良い意味だけれど。
 私は頷いてから、彼に礼を言った。
「今度絶対返すから」
「おう。迎えにいってやれ」
 背中を押されて、私はドアベルを鳴らし飛び出した。空はすっかり暗くて、駅前も街灯がポツポツと照らしている。先ほど終わったということは、学校の方から駅に向かっているはずだ。


 私はあたりを見渡しながら、萩原を探した。少しずつ、学校のほうへ足を向けながら――。そして、艶やかな髪を見つけると、感慨に耽る間もなくその大きな背中へと飛びついた。萩原の匂いが、鼻を擽っていく。

 驚いたように、萩原が振り返るのが分かる。私は背中に抱き着いたまま、浮かんだ笑みを隠すこともせずに、その振り向いた表情を見上げる。

「今日は私が見つけたね」

 に、と少し得意げに笑って見せた。私を見下ろした、優し気な視線は街灯の光を反射してゆらっと揺れる。そしてみるみるうちにその表情を喜色に満ちさせると、ぐるっと体を振り返らせて、すっぽりと覆ってしまうみたいに私を抱きしめた。
 萩原の体温は、温かい。上から重なるような長い腕にすり寄りながら、私はその温度を何度も確かめた。