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 玄関の扉を潜ると、大きな体はどっかりと私に凭れかかった。さすがに重たくて、よろけながら、しかしその重さが愛おしくて、背負うようにしてリビングへ向かう。まあ、彼の長い足先はしっかり床についていたけれど。引きずった体をソファに下ろして、夕飯の準備をしようと思ったら人差し指をひしと握られた。

「待って、もうちょい」
「……しょうがないな」

 私の然程大きくもなく長くもない、一本の指を緩く握った大きく器用な手つき。私はふっと笑いながら、彼の隣に腰を掛けた。二人座ると、大きく沈むソファが懐かしい。彼は私の手を手繰り寄せると、その面長な肉の薄い頬へ持っていく。
「あー……染みる……」
「何が。別に暖かくないでしょ」
「分かってないねえ。この絶妙な体温が良いのさ」
 彼はすり、と私のやや乾燥した手のひらに頬ずりをする。指先、今がさがさなんだよなあ。恥ずかしくて手を引こうとするけど、萩原は意地悪そうに笑って「駄目」と手を放さなかった。
「聞いたよ。トイレ掃除してたんだって」
「げっ、なんでそれを……」
 私も意地悪に笑い返したら、露骨に表情を崩した甘い顔つきが面白くて、私はプっと噴き出した。笑った私をちらりと見上げながら、彼は申し訳なさそうに眉を下げている。別に説教をしようだなんて思っていないのに。まあ、悪いことをした自覚があるのは良い事か。

「や、違うんだよ。掃除は実際終わってて……」
「でも、清掃時間だったんでしょ?」
「ごもっとも」

 がっくし、と肩を落とした萩原に、私は笑いながらその肩を軽く叩いた。垂れた目つきが、片方だけ開いて様子を窺った。
「にしたって、誰に聞いたんだよ。松田も俺と一緒に罰則中だったぜ」
「研ちゃんのこと待ってた時に、伊達さんって人から」
「伊達班長? 会ったの」
 同期生だとは思っていたが、どうやら萩原もよく知る人だったらしい。なんでも、クラス委員長と同じような立場なのだとか。教場という、警察学校の中のクラスの代表的なものだ。なるほど、随分はきはきとした好青年(――青年だとは思わなかったけれど。それは黙っておこう)だと感じたものだ。
「じゃあ挨拶しとけば良かったかなあ」
「……なんて?」
「研ちゃんがいつもお世話になってます〜って」
「なんだよ、もう。今日は意地悪だねえ。俺泣いちゃうよ」
 ちょっとも悲し気でない表情がグスン、と鼻を啜った。私はもう一度声を上げて笑ってから、身を乗り出して学校の話を聞いた。伊達という男のことや、他の同期たちのこと、松田は学校の中でどうだったかということ。
 彼の話では、なかなかに個性の強い同期に囲まれたらしい。困ってしまう、と苦笑いをしていたが、彼もその個性の強い一部なのでは――。松田と揃って問題児になっているところなど、容易に想像ができてしまった。

「へえ。伊達さんも言ってたなあ、正義漢がいるって」
「そうそう。もう入校してから陣平ちゃんとバッチバチで」
「大丈夫? 怪我してない?」
「へーきへーき。差し歯が抜けたくらいだって」

 差し歯が――私は口を半分開いた状態で固まってしまった。それって、殴った――ってことか。私には想像のできない世界だったが、男なら普通なのだろうか。いまいちピンとこないけれど、萩原はこんな口を叩いていても松田を大切にしていることを知っている。彼がこんなふうに、清々しく笑っているのなら、まあよくあることなのだろう。

「ああ、ごめん。女の子にこんな話するもんじゃないね」
「あ、ううん。ちょっと想像できなくてビックリしただけ……」
「確かに、みずきさん喧嘩とかしないだろうしなあ」
「そんなことないよ。平手は打ったし」

 ぶんっと素振りをするように手のひらを翳すと、萩原は驚いたように目を見開き、それからその驚愕をパっと笑顔に変えた。
「そういや、そうだった。女の子は強いなあ」
「確かに、殴り合いはしたことないけど」
「しちゃ駄目だろ。顔に傷がついちまうよ」
 軽く目じりに唇が落とされる。顔が近づいた拍子に、驚いて瞼を閉じてしまった。目元に落とされたキスに、拍子抜けしたような――。それがバレるのも恥ずかしいような。キスされた場所を指で押さえていると、萩原は鼻から抜けるように小さく笑った。

「かわいー、照れてんの」

 に、と表情豊かな唇が突っ張るように弧を描いていく。私は唇を内側に巻き込むようにして、表情が歪むのを堪えた。羞恥心が、心の奥で煮える。年下の青年のほうが、一つ上手のような態度を取るのに、少しばかり悔しさもあった。
 にこにこと笑う目元から視線を逸らしたら、唇にふにっと温かい感触が触れる。驚いて視線を萩原へと戻せば、ご機嫌そうな顔が目の前にあった。高い鼻の先が、ちょんっと私の鼻先に触れる。

「キスして良い?」
「……そういうの、聞くタイプだっけ」
「意地悪言うから、仕返ししたくなってさ」

 意地悪って言っても、そんな大したことしてないじゃないか。
 言葉に詰まる。もしかしたら、叱られた子犬のように座る萩原を可愛いと思っていたことが、彼にも伝わっていたのかもしれない。いや、だってしょうがない。事実可愛かったんだから。
「今、意地悪の心当たり探してるでしょ」
「時々エスパーみたいなこと言う……」
「だろ。俺、エスパー使えるからね」
「嘘だあ」
 くくっと喉を鳴らした、茶化すような声。私が苦笑いをすると、厚い唇がちゅっと笑い声を塞いだ。厚くて、熱くて、でも見た目より少し固い感触。私の料理をいつもぱくりと大きな一口で頬張る唇。
 ほんの一瞬触れるだけのキスだった。私の唇に僅かに塗られた熱が、じわじわと体に熱を広げていく。頬が、紅潮するのが分かる。頬だけじゃない、耳も、首も、肩も。白紙に落とした絵具みたいに。
 無意識に、唇が緩く開いた。太い眉が、片方だけ器用にピンと吊り上がる。
「もっとしてって思った?」
 ――それは、エスパーじゃなくて誘導じゃない?
 思ったけれど、でも言い当てられたのは事実だった。小さく頷いたら、もう一度唇が触れた。今度はさっきよりも、少し深く重なった。その体温が心地よく、三度目は私からキスをした。

 彼とキスをすると、自然と首が見上げるような形になる。男にしては長く艶やかな髪は、私の頬を時折サラサラと擽った。空いた手で彼の髪を耳に掛けてやったら、萩原は少しだけ不服そうに「それ、男のロマンだよなあ」と言う。
「だって、研ちゃんのが背高いからしょうがないじゃん」
「いーや。俺寝っ転がるから、お願いします」
 どさっと膝に頭を乗っけてきた姿は、さながら歯磨きをされる幼い子どもだ。どうぞ好きにしてください、とアピールするように、両手は真っすぐ腿へ伸びている。
「ぶっ、あはは! 待って、笑かさないでよ」
「真剣だろぉ。なあ、早く」
 くいくいと、袖を引かれる。ちゃり、と彼がくれた腕時計のベルトが鳴った。口角が持ち上がったその唇に、腰を屈めてキスをすると、太い指先が私の髪の毛へと伸びた。今日、巻いていたし、萩原ほど直毛でもないから、掛ける甲斐はないような。
 その指先が、器用なのを知っている。
 機械に触れる時、料理をする時、古雑誌をまとめる時。するっと長い指先をものともせず、狭い隙間に入り込んでいくのを知っている。だからこそ、なんだかその仕草はとても色っぽい。
 私の髪を一束拾い、そっと耳の縁に掛けていく。ちり、と熱い指の皮膚が、耳の柔い皮膚を掠めていく。小さく声が漏れそうになるのを、笑いながら堪えた。

「……うん、綺麗」

 私を見上げた顔が、満足そうにそう言った。彼が取りこぼした残りの髪を耳に掛けて、もう一度、微笑む唇にキスを落とす。寂しかった、会いたかったよ。そんな気持ちを全て、彼の心に届けたかった。