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 土曜の朝。私は大きな体を猫のように丸めている青年を揺すり起こした。ぽさっとした乾いた髪先は、いつもの艶を失っているように見えた。寝ぐせを撫でつけるように触れると、「ん」と籠ったような声が漏れる。
 別に、朝が特別早い日ではない。
 今日は一日何の予定もなかったし、買い物でもしようかと考えていたところだった。けれど、このまま寝かせておいても朝食が冷めるし。もう時計の短針は十を超す。眩しそうに眉間の皺を深くした萩原に、迷惑だっただろうかと、一抹の不安はあった。

「……みずきさん?」

 どこか夢心地な、覚醒できていない声が私を呼ぶ。自然と口角が緩んで、私は「うん」と返事をした。へにゃ、と気障ったらしくない、解けるような笑顔が浮かんだ。うっすらと開いた瞼から、黒くキラリと光る瞳が私を映す。

「おはようさん。あー、良い匂い」
「グリル焼きだからね、匂いで起きないかなあって思ったけど」
「実は夢の中でもメシ食ってたからなあ」
「なにそれ。もうごはんつけちゃうね」

 踵を返せば、彼ものそっと大きな動物のように体を起こす。私もキッチンへ向かい、朝食をダイニングテーブルへ運んだ頃、顔を洗ったらしい萩原が大きく欠伸をしながら姿を見せた。
「久々にすげえ寝たわ。みずきさん家のベッド快適」
「寮の布団、狭いの?」
「狭いよ。シングルだもん。俺がシングルだよ?」
 信じられる? 彼は拗ねたように口を尖らせながら文句を垂れた。確かに、彼の体の大きさだと、普通のシングルサイズでは狭いだろうと思う。彼で狭いというのなら、先日会った伊達などより窮屈なのだろうな。
「そういえば、松田くんはどうするって」
「陣平ちゃんは、今日は差し歯の治療。明日は一緒にメシ食おうって」
「なるほどね。じゃあお肉は明日に取っておこうか」
「えぇ、今日食っちまおうぜ」
 相変わらず、松田には容赦がない。苦笑いしながら席に着くと、彼は表情をみるみるうちに輝かせた。その表情を懐かしく思いながら、心が躍ってしまう自分がいる。

 萩原の、その素直な感情が好きだった。
 ぱっと見たときはどちらかといえばクールな雰囲気を纏っているし、大きな口がニヤっと笑うとニヒルな印象を抱く。
 だけど、私の前にいるとき。私が何か一つ行動を起こすたび、その表情は色をころころと変える。それが、私にはないもののような気がした。妙なプライドや、不安を全て取り払ったような、彼の姿が好きだ。

 これが全て演技だったら、いよいよ私は人間不信になってしまうだろう。魚を箸でほぐしながら考えていたら、萩原が味噌汁を飲みながら、目線だけをこちらに向けてきた。私は手元をそのままに、小さく首を傾げる。

「ふ、みずきさん、寝ぐせついてんの」

 ちょんちょん、と彼が自身の襟足をつついた。私は思わず同じように襟足に触れる。確かに、一束ぴょんと立っているものがある気がした。――しまった、折角朝からしっかりアイロンをしておいたのに。ぐぐ、と押し込むように寝ぐせを押さえたら、萩原が声を上げて笑う。
「ごめん。気にしなくて良いよ、可愛いなって思っただけだから」
「……可愛いって思う?」
「俺は可愛くなかった?」
 ――可愛かったけど。
 図星で言葉に詰まってしまった。萩原は見透かしたように澄まして魚の身をほぐす。器用な箸使いで、決して習ったとかではなさそうなのに、骨から白身がするすると取れていく様は見ていて清々しいほどだ。

「魚食べるの上手だね」
「そうかな? あんまり……骨まるけ≠フ奴とか苦手だけど」

 聞き馴染みのない言葉が聞こえて、私は思わず彼を見つめ返した。萩原が不思議そうにぱちぱちと瞬いたから、私はその言葉を反復する。――「まるけ?」。尋ねた言葉に萩原は箸を咥えたまま、もごもごと口の中のものを咀嚼していた。
「言わねえ? まるけ」
「言わないよ。だらけ……みたいな感じ?」
「そうそう」
 彼がさも当然のような風でいう物だから、私もそのように思えてきた。どうにもモヤモヤとしてしょうがなくて、部屋の本棚に仕舞ってある電子辞書を引っ張り出した。まるけ――と入力すると、東海地方の方言だと出てきた。
「方言だって」
「へえ、そうなんだ……。もしかしたら、誰かのが移ったかな」
 白米をほおばって、萩原は思い出すように視線を斜め上へと持ち上げる。
 彼女だったら嫌だな。なんて心の狭いことを考えてしまった。だって、萩原は東京出身だと聞いていたから、たぶん彼の家族ではないだろう。そこまで親しい間柄なんて、他に限られるような気がしたのだ。
 いやいや、良くない。こうやってマイナスな方向にばかり感情を向けてしまうのも、私の悪いクセだ。例えそうだったとして、今は目の前にいるのだから良いじゃないか。私は言葉を呑みこんで、「そっか」と相槌を打つまでにおさめた。


 朝食を済ませると、家具を買いに行きたいという萩原に付き合うことにした。家具と言われると大げさだが、何でも洗濯ネットが欲しいらしい。大人数で選択をするので、人の物と混ざってしまうことがしょっちゅうなのだとか。確かに、萩原は松田とは真逆で服や私物にこだわりがあるタイプだ。私の貸そうか、と言ったら、そんなに小さいものではないと笑われた。

 ワックスをもみ込んで、いつものヘアスタイルになると、先ほどの彼から急に色っぽさが増す。化粧をする傍ら、鼻歌交じりに髪を弄る萩原を横目で見た。毛先が輪郭を擽る。横を向くと高い鼻筋が目立ち、広い額のふくらみが目立つ。とてもじゃないが、先ほどまで寝ぐせをぴょんぴょんと立たせていた男とは思えないほどだ。
 ビューラーで睫毛を上げながらうーん、と唸っていると、萩原はコテを持って私の後ろに立った。

「髪やったげる」
「できるの?」
「姉ちゃんで慣れてんの。ほら、貸して」

 するっとコテを髪の毛に通しはじめた手つきは、確かに手慣れていた。くっと外にハネる毛先は、自分でやるよりもなだらかなカーブを描いている。
「本当だ。上手」
「だろぉ? スパルタだったからね」
「私がやると、たこさんウィンナーみたいになっちゃうんだよ」
 と言うと、萩原はぶっと私の後頭部に向かって噴き出した。驚いて振り返ったら、よっぽどツボに入ったらしい。低い声をくつくつと鳴らしながら、「たこさんウィンナー」と復唱した。コテを持つ腕がぷるぷると震えている。
「ま、まあ確かに……ふふ、後ろとか自分でやんの難しいよな」
「笑いすぎだって」
「ちょっとやってみて」
 渡されるままに、右側に髪をハネさせる。ぴょんっと跳ねた髪を見て、萩原はげらげらと笑い転げた。苦しそうに息を何度も呑むような音が聞こえた。

「た、たこさんウィンナー……! かわいいなあ」

 よしよし、と宥めるように後頭部を撫でられて、私は少し拗ねながら残りの化粧を済ませた。途中、笑いがようやくおさまったらしい萩原が何度も「ごめんって」と謝って来たけれど、三回ほど無視をしておく。

 しかし、萩原の手によって丁寧に仕上げられた髪は、いつもよりも指通りが良く、見栄えもした。彼と同じヘアワックスは、つけると萩原の香りがほんのり移ってしまったような気がした。くん、と自分の毛先に鼻を近づけると、萩原は気遣うように「臭かった?」と問いかけた。

「あ、ううん。萩原くんの匂いだったから」
「そりゃ、まあね。でもみずきさんがつけたほうが、爽やかなかんじ」
「それは、萩原くんが煙草吸ってるからじゃないの」

 今度は彼の髪に鼻を近づける。萩原の吸っている煙草の残り香が、ヘアワックスの甘さと混ざって匂う。
「私は、好きだけど……」
 ぽろっと零れた言葉に、萩原はやはり真っすぐに嬉しそうな表情を浮かべる。むず痒いけれど、その綻んだ頬を見て、私も嬉しいと思えた。