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 日曜は、寮に帰る前に松田を交えて食事会をする予定があった。何か作ろうかと提案したが、簡単なもので良いよと萩原が笑った。確かに夕飯にはまだ少し早い時間でもあったし、プレートを出してたこ焼きを作ることになった。
 久々に会った松田は、当たり前だが急に大人びるなんてこともなく、相変わらず少年のまま育ったような目つきを潤ませていた。なかなか重度の花粉症なのだそうだ。鼻をずびっと鳴らしながら、赤くなった鼻先をごしごしと擦っていた。

「あ、あと紅ショウガかな」
「へいへい」
「揚げ玉いれてえ」
「良いよ。籠にいれて」

 カートを引きながらウスノロに進む松田を振り返って、私は頷いた。萩原が紅ショウガと刻みネギを抱えて帰って来た。さすが、気が利く。礼を言うと、見るからにデレっとした笑顔で「いーえー」と間延びした声が笑う。
 その時に、後ろから松田の「おえっ」という声が聞こえて、私はふっと笑ってしまった。どうやらそれが松田としても面白かったらしくて、悪戯っぽく片側の口端だけをニヤっとさせたのが、マスクをしていても読み取れた。タコ焼き用のソースを買いに行った萩原の背中を見送って、がらがらとカートを引きながら松田がこちらに歩み寄る。

「なんだ、ありゃ。赤ん坊か?」
「あはは、赤ん坊って……」
「世話が大変だなあ、母ちゃん」

 ぽんぽん、と慰めるように肩を叩かれて、つい声を上げて笑う。前から思っていたが、彼はニヒルに人を揶揄うクセがある。それが敵を作ることもあるだろうが、身近な存在だとユニークで面白いのだ。
「差し歯大丈夫?」
「なんだよ、ハギか。チクったの」
「萩原くんは大丈夫って言ってたけど」
「だろーな。心配すんな、俺が勝ったから」
 ――それは、心配してないよ。苦笑いしていると、萩原がひょこっと私と松田の間に顔を挟んだ。きょとんとして萩原を見ると、その垂れた目つきをジトっとさせているので、私たちは揃って首を傾げた。

「んだよ〜、俺がいねえとこで楽しそうに……」

 ごにょ、とした口ぶり。松田の充血した目つきがチラリとこちらを振り向く。視線が合うと、彼は再びマスクの下でニヤリと笑った。私と松田、どちらに嫉妬するわけでもないのが、萩原らしい。
「ずいぶん可愛い赤ちゃんだことだな」
「赤ちゃん? それ俺のことぉ?」
 不服そうに自分を指す萩原の頭を宥めるように撫でると、彼は拗ねた風に横幅の大きな口を歪ませる。――可愛いなあ、と思った。その広い背を押すように、先を促そうとした時だ。
 背後から、呼び止めるような声があった気がする。
 一度それで足を止めた。二人がどうかしたのかと、不思議そうな表情をしていたから、気のせいかと思った。しかし、そのあと直ぐにハツラツとした声が、やはり真っすぐに転がり込んだ。

「松田、萩原!」

 松田と萩原がようやく背後を振り向き、そして納得したように表情が変わる。萩原も、普段の柔く微笑むようなものじゃあなくて、ニっとヤンチャそうな笑顔を浮かべていた。
「なんだ、藤井じゃんかよお」
 軽く手を挙げた姿に、誰か知り合いかと私も振り返った。そして、瞬く。普段と姿は異なるけれど、見覚えのある顔立ちだったからだ。白いトレーナーが、爽やかで素直な彼の性格によく見合っている。今年から入社した、新入社員の一人だった。
 彼は私の存在には気づいていないようで、どうやら旧友らしい松田と萩原にニコニコと話しかけている。笑うと目じりにくしゃっと皺ができるのが特徴的だった。

「警察官? お前らが?」
「そうそう。合格して、今は訓練中ってかんじ」
「喧嘩の取り締まりで喧嘩するなよな」
「余計なお世話だっつうの。お前は?」

 松田が肘で藤井の体を突くようにしたら、彼はじゃれたような顔をしてワハハと声を上げる。
「俺? 俺は――」
 と、その質問に答えようと顔を上げたとき、その素直そうな目つきとバッチリ目が合ってしまった。彼は何度かキョロキョロと周囲を見回し、もう一度私のほうを見る。

「……橘さん?」
「あ、うん。ごめんね、楽しそうだったから口挟むのもなって思って……」
「え、あ、おはようございます! じゃなくて、なんで……」

 松田たちと私の間に、面白いくらいに視線を走らせていく。
 待ってました、と言いたげに得意げな表情を浮かべたのは萩原だ。いや、別に威張ることじゃないだろうとは思う。
「俺の彼女ちゃんです」
 ニコーっと効果音がつきそうな笑顔で、大きな手が私の肩を軽く引き寄せる。苦笑いしながら、私はその言葉に小さく頷いた。

「か、彼女ぉ!? 橘さんが!」
「あはは……すごい偶然。藤井くんは、萩原くんたちと同窓生?」
「うん……違う。はい。高校の時の同級生で」
「俺の差し歯の原因」

 松田がビっと親指を向けると、藤井は睨みつけるように「言うなよ」と松田を制した。意外だ。入った時から、フレッシュで素直な印象が強かった。やっぱり、男は喧嘩のひとつやふたつするものなんだろうか。身近に仲の良い男――という存在が少なかったので、よく分からない。
「あ、もちろん、今は喧嘩とかしませんから」
「大丈夫、別に心配してないよ。いつも真面目に頑張ってくれてるし」
「藤井が? バレねえとこでサボってんじゃねえ?」
「お前らにだけは言われたくねー!」
 萩原が悪戯っぽく、目元を細めて藤井を見る。藤井はムカっとしたように眉を吊り上げてから、萩原の長い足を軽い力で蹴り上げた。

「じゃあ、今はみずきさんと同じ会社で働いてんの」
「そう。部署も同じだよ」
「本当に、いつもご指導ありがとうございます」
「私そんなに何かしてるわけじゃないし……。そっかあ、同い年だとは思ってたけど」

 それから彼と何言か交わしてから、藤井は「邪魔しちゃ悪いから」と頭を下げた。その背中を見守れば、ずいぶんと離れたところで誰か人を待たせていたようだ。たぶん、シルエットからして彼女だろうか。あの距離で松田と萩原が分かるとは――。

「さすが、人間広告塔……」

 確かに、このシルエットが二人で並んでいると二人たらしめんとする何かが分かる。二人とも、目立つのだよなあ。私が感心していたら、萩原が苦く笑った。
「何に感心してんの」
「え? いやあ、二人とも目立つなーって思って」
「そうかね。まあ、高校のときは仲良かったし」
「喧嘩したのに」
 私は差し歯のことを思い出して、ついそう零した。すると今度は松田と萩原が二人で顔を見合わせて、プっと噴き出すように笑う。先ほどの萩原の気持ちが、少しだけ共有できた気がする。
「……二人だけで、何よ」
「ごめんごめん。そういうもんなの、ホラ、喧嘩するほどってやつ」
「そんなものかなあ……」
 ――想像できない。だって、喧嘩するということは、少なくとも一度は相手を嫌いになるということじゃあないのだろうか。子ども向けのアニメーションでもあるまいし、仲直りしてニコニコ笑いあう姿なんて、本当にあるのだろうか。
 私は、違った。喧嘩すればしただけ、その鬱憤が心に蓄積した。仲直りしても、ポイントが消えることはない。それが加算されていってアウトラインを超えると、再び喧嘩をした。

 少しだけ過去を思い出してモヤモヤとした心を読み取ったように、萩原が私の顔を覗き込むように微笑んだ。そして、先ほど私がしたように、ポンポンと頭を軽く撫でつける。

「相手を知らないから、知りてえから喧嘩するんだよ」

 まるで小さい子どもに絵本でも読み聞かせるような、穏やかでゆったりした語り口調だった。眠気を誘うような、低い声。
「モチロンいちゃもんのつけ合いって時もあるけどね。あ、別に喧嘩してえわけじゃないから」
「……ふ、急に不安にならなくても」
「みずきさんと喧嘩しても嫌いになんかならないよってだけ。でも数日は落ち込んで泣いてるかも」
 太い眉を下げて、指で目じりを擦るような仕草をした。下手な泣きまねに笑ったら、彼もヒヒ、と悪戯っぽく歯を見せた。