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 五月も終わりに差し掛かるころ、週末はいつものように萩原が寮から帰る日だった。朝からしとしとと細い雨筋が降り注いでいて、寮の近くまで車を走らせていた。フロントガラスに落ちた雨粒が、街灯の光をキラキラ反射している。

 待っている間、読みかけの小説に目を走らせていた。工藤優作ファンのなかで話題の、新人ミステリー作家の作品だ。作家本人が影響を受けたというだけあって、作風こそ違うがトリックのどんでん返し具合には近しいものを感じる。ドキドキとしながら次の頁を捲ろうとした時、こんこん、と助手席の窓が開いた。

「うわー、ありがとうね」

 細かい雨粒を手で払いながら、乗り込んできた大きな体に私は小説を閉じる。私の手元を見てから、萩原は「目、悪くなるよ」と苦笑いを浮かべた。視力が年々落ちているのは確かだ。
「今度からは電気つけるね」
「うん、眼鏡掛けてるのも好きだけどさ」
 湿った髪を鬱陶しそうに耳に掛けて、萩原は笑う。てっきり松田も一緒だと思ったのだが、周りを見渡しても影が見当たらない。私が視線を走らせるのに気付いたのか、萩原が呆れたように言う。
「陣平ちゃんはお友達と飲み」
「え、一緒じゃなくて良かった?」
「勿論、みずきさんと会うほうが大事だよ」
 恥ずかしげもなく、ニコニコと言うものだから、私は少しはにかんだ。彼のストレートな感情は好きだが、その真っすぐな好意にははらはらとしてしまう。いつ私の表情筋緩むかと、気が気ではない。ニヤけてしまうのも、驚きのあまりに目を見開くのも、年上としては何とか堪えたいところだ。

「そういえば、来週はちょっと実家のほう行くかも」
「そうなんだ。分かった」
「あ、でも日曜は会えるから」
「ゆっくりしても良いのに。嬉しいけどさ」

 そう告げた言葉に嘘はない。確かに一週間会えない期間が空くのは寂しいけれど、彼の姉を見る限り仲の良い家族なのだろう。たまには顔を出すのも良いのではないか――と思う。仲の良い家族というものがよく分かっていないけれど、たぶん、世間的にはそういうものだ。
 私なりには気遣いのつもりだったのだが、萩原は少しだけ難しい顔をしてから「みずきさんに会いたい」と呟く。いつものようにニコ、という穏やかな笑顔でなく、ほとんど独り言のような声色だった。
 しまった、もしかしたら、私は会いたくないような言い草になってしまっただろうか。それは誤解なのだ。私だって、会えれば会いたい。ただ、私が原因で遠慮をしてほしくないというだけだった。

「あ、別にそういうわけじゃ……」

 弁明をしようとして彼のほうを向き――私は一瞬言葉を失う。
 私が予想していた、どの表情とも違った。ニコニコともしていなかったし、別に拗ねてもいなかった。垂れているが日本人らしい奥二重の目つきは、ゆっくり、ゆっくりと瞬く。太い眉は眉間に皺一つ寄せず、穏やかな弧を描いていた。
「うん……」
 ぼそり、と低い声がぼやく。
 私はそっと口を噤んだ。流していた、好きな歌手のCDはボリュームを下げ、静かに鍵を回す。さして寒い夜ではないけれど、濡れているし、このままだと風邪をひくかもしれない。後部座席から冬に使うブランケットを取って、その大きな体に被せた。そして、なるべく急な加速にならないよう、小さくアクセルを踏みだした。

 疲れているだろう。
 そりゃあ、そうか。朝から夜まで訓練をして、寮生活のぶん疲れがとれない部分もあるだろう。萩原のことだから、ある程度は要領良くやる方だと思うけれど。それに、確か前バイトで会った時にも車のなかで寝ていたし、本当はよく眠るほうなのかもしれない。私の前で居眠りをするような姿は見たことがなかったけれど、気が休まるのなら良いな、と思った。

 車を少し走らせていると、ゆったりとしていた瞬きが完全に止まる。閉じた瞼は、びっしりとした短く太い睫毛が影を落としている。そのうち、大きく胸が上下しはじめて、穏やかな寝息が聞こえた。

 
 決して言葉があるわけではないけど、私はその空気に心地よさを感じた。
 私の好きな歌手の歌声と、私の好きな人の寝息が混じって、私の頭を穏やかに、柔らかく揺らす。私もなんとなく歌手の歌声に合わせて鼻歌なんて歌いながら、車通りも多くない道を走る。それが、もしかしたら、敢えて言葉にするのならば、幸せともいえるのかもしれない。

 幸福とは、幸福を探し出すことである――。
 とは、とある劇作家の言葉だった。そうは言うものの、人生の中で幸せだと感じられる日などそうそうあったものじゃない。なぜなら、私はもう大人であるからだ。晴れた日差し一つに喜ぶこともなければ、ランチのメニューでひと悶着もしない。
 もちろん、友人と楽しい話をすることは好きだし、仕事には恵まれている。
 ただ、探し出そうとすればするほど、幸福とは私とは遠い所にあるのではと思えてくるのだ。

 ――けれど、隣で眠る彼を見ていると、それこそが幸せなのではと感じた。
 愛する人と送る、穏やかな日を――、もしかしたら、皆は幸せだと呼ぶのではないか。そうだとしたら、どうか、この時間ができる限り長く続くよう、私は心の中で祈るのみだ。

 マンションの駐車場に車を停める。
 萩原は、まだ眠っていた。私は車内の電気をつけて、先ほど読みかけのままだった小説に手を伸ばす。もう少しだけ、もう少しだけ。この時間が続くように。捲った頁は、心なしからいつもよりも軽く感じた。きっと、それは気のせいだろうけども。




「いーや、もう寝ないってば」
「寝ても良いって言ってるのに……」

 拗ねたように長い足をソファに丸め込んだ萩原に、私は淹れたばかりのココアを差し出した。大きな足の指先が、うぞうぞともの言いたげに蠢いている。萩原が自然と目を覚ましたのは、あれから三十分ほど経ってから。私としてはもう少し寝てもらっても良かったくらいだ。
 相当に悔しかったのか、彼はムスっとしながら今日は寝ないとまで言い始めた。これでは、駄々をこねる幼児だ。思い返すと、あの卒業論文の一件以来、彼が先に寝ることはなかったかもしれない。いつも私が寝付くまで、そばで大きな手が私の体のどこかに触れているのを覚えている。

「疲れてたんでしょ? 私は結構嬉しかったよ」
「……だってよぉ、一緒にいる時間減っちまっただろ」

 ちらりと、深い黒色の瞳がこちらを見上げる。
 ――か、かわいい……。
 彼が幼児だとすれば、私は親バカなPTAか。うっと言葉を詰まらせて、しかしいつも可愛いと思っていることを見透かされているような気がするので、敢えて得意げに笑ってみせた。
「私は記憶あるから良いの」
「だからそれがずりぃじゃん。みずきさん寝てよ、隣で起きてっから」
 ぼすぼすと広いソファの隣を、彼は乱暴な手つきで叩いた。私は立ったままココアを口につけ、苦笑する。悪い意味ではないが、近頃彼の甘えっぷりに拍車が掛かっている。いや、良いんだけど。

「なーあぁ」

 萩原は、とびっきりの甘えた声で私に強請る。そう言われると、断れない私も私である。マグカップをテーブルに置いてから、もぞもぞと彼の座る隣に寝転んだ。萩原は嬉しそうに、悪戯っぽく歯を見せて笑う。
「車の中で流れてたのって、最近来日したっていう?」
「うん、そう。あの人の歌好きなんだよね」
「へえ……俺も好きだな。みずきさんっぽくて」
 彼は、きっとうろ覚えなのだろう。少し音程のズレた、私の好きな歌手の歌を口ずさみ始めた。テレビでもよく流れているから、サビくらいは聞いた事があったのかもしれない。女性シンガーのものなので、萩原の低い声が歌うとイメージががらりと変わった。パワフルで力強い印象が、温かく誰かを包む陽だまりのように落ち着いたイメージになる。

「……ねえ、けんちゃん」

 欠伸をかみ殺しながら彼を呼ぶと、相変わらず間延びした口調が「んー?」と聞き返す。私はそれに満足して、何を言おうとしたか忘れてしまった。なんでもない、と笑ったら、大きな体が屈んで、額に熱い唇がそっと触れる。その声を子守歌に、私はうとうとと瞼を閉じたのだ。