38

 傘を打ち付ける雨が、ぼつぼつと乱暴に激しさを増していく。アスファルトを跳ねた雨粒が、ストッキングを濡らした。気温はそれほど低い日でもなかったが、雨が降るとやはり空気は冷たく、濡れた場所がよく冷えた。
 おかげで、電話越しの声がぼやけて聞こえるのが、今の私にとって唯一の救いだ。

「うん、わかってる。元気にやってるよ」

 自分でも、他人行儀な声が飛び出たことに驚いた。松田たちと喋っているときよりも、桐嶋と笑いあっているときよりも、ずっと自分ではない声。そのわずかな声色の変化にも、携帯の向こうにいる人物は気づかないだろう。
「ん? ……ああ、こっち、雨が降ってるから。そう、外なの。もう切るよ」
 私は向こう側の返事も聞かないままに、やや乱雑に通話を打ち切った。ため息が出る。どこで何をしていようが関係はないのに、向こうから掛けた時には親のような顔をして話すのだ。
 ――彼らは親という名前のついた、ただの他人だった。
 私の好きなものを知らない。嫌いなものも知らない。どこに住んでいるかも、どんな人付き合いをしているかも。私が母、父、と登録した連絡先さえ拒否してしまえば、一生他人なのかもしれなかった。

『ごめんね、明日は早く帰ってくるから――』

 結局、捨てられていないのは私のほうだ。
 そう分かっていながら、この連絡先を消すことができない。いつまでも、明日という希望を持ち続けているのは私だ。いつか、仕事よりも誰よりも優先して、私のことだけを迎えに来てくれないだろうか。「今日は貴方のために早く帰って来たのよ」、と笑いかけてくれれば、それでじゅうぶんだったのに。

「……まあ、良いか」

 私はパタンと携帯を閉じて、鞄に仕舞いこむ。そんなことを考えたとして、両親の態度が変わるわけでもない。それに、今は誰よりも私を優先してくれる人がいるのだから。私にできることは彼の心に応えることだ。
 さあ、帰ろう。土曜日に萩原の姿がないことに、僅かに心の隙間を感じながら、私が駅へと向かい始めたその時だ。もう一度、携帯が鳴った。着信を見ると、父からだった。

 ――その瞬間、僅かに期待の心が鳴ってしまった。
 先ほどまで母と話していたが、父から電話があることは母以上に珍しかった。そんなにも急いで伝えたいことがあったのだろうか。ドキドキしながら着信をとると、向こう側から聞こえてきたのは怒声だった。
 
 何を言われのか、一瞬理解ができなかった。
 一年ぶりに聞く父の声。前に聞いた時よりも張りがなくなっただろうか。先ほど、私が母の電話を乱雑に切ったことに対して、彼は腹を立てているようだった。私は黙ってそれを聞くことしかできない。
 両親に口答えをするのは、悪いことだった。
 そんなことをしたら、彼らが振り向いてくれない。幼い私にとって、それは何よりも恐ろしいころだったから。

 ――みずきさん

 ふと、萩原の顔が過ぎる。彼は、どうだろう。私が反論をしたら、私を捨てるだろうか。喧嘩をしても嫌いにならないと、朗らかに告げた彼が。泣きながら、私の裾を掴んだ彼が――。
 今まで、何に怯えていたのだ。こんな風に私のことなど知りもしない両親に嫌われることは、そんなに恐ろしいことか。

「……放っておいて」

 震える唇で、私は呟いた。なんだか、泣きだしたい気持ちになるのは、振り続ける雨の所為だろうか。それは彼らの娘として生まれて、初めての反論だったかもしれない。しかし、一度口にしてしまえば堰を切ったように止めどなく想いが溢れた。

「どうせ顔も見せないなら、もう放っておいて」

 ぼろっと涙がアスファルトに落ちる。雨粒に混ざって、どこに落ちたかは分からない。私は父の返事も聞かないまま、感情的に電話の電源を切った。指先がまだ震えている。どうしよう、なんて口をきいてしまったのだろう。そう後悔する気持ちが心の奥にあるのが憎らしかった。

 私は気にしないようにかぶりを振る。
 明日は、萩原と過ごす予定だ。大丈夫、きっと――。彼は、一方的に私を嫌うことなんて、ないはずだ。私が嫌われないように過ごしていれば、きっと、そう。

 髪を耳に掛けて、ふうと顔を上げた時だ。丁度狭い歩道だったせいだろう。私の傘が、隣り合っていた誰かの傘を弾くようにぶつかった。しまった、と思ったのも束の間で、隣にいる人は傘を落として少し声を漏らす。
「わ、すみません!」
「あ、いえいえ。気にせずに」
「でも雨すごいから……。濡れましたよね」
 すぐに傘を拾ったようだったが、今日の雨は梅雨時にしても激しい雨足だった。水たまりが信号のランプをそのままに反射して、道行く人は皆その灯りをかき分けるように足早に歩いている。
 私は鞄からハンカチを取り出し――その拍子に、携帯が鞄から飛び出た。


「あっ」

 と、声を零したのは私だっただろうか。目の前の男だっただろうか。どちらともない声と共に落ちた携帯が、深めの水たまりにぼちゃんと落ちる。小さく水しぶきが上がった。さあっと顔から血の気が引いていく。慌てて携帯を拾い画面を開く。そういえば電源を切っていたっけ、すぐに電源ボタンに手を伸ばすと、目の前から手が伸びた。

「駄目ですよ、電源いれちゃあ」

 ――その声には、少し聞き覚えがあった。
 私は傘をやや後ろに傾けて、手の先に視線を向けた。彼もまた、私のほうを見たのだろう。心配そうに皺が寄った眉間と、誠実そうな目つきが印象的だった。つん、と吊り上がった目つきが、きょとんと瞬く。萩原とは対極にいるような顔つきをしていた。
「あれ、確か……橘さん」
 彼も私の顔を覚えていたようで、涼やかな顔が和らいだ。
「諸伏くんだっけ。このあたりに住んでるの?」
「いえ、今日は実家のほうに帰るところで……」
「そうなんだ」
 私は相槌を打ち、ひとまず近くのカフェに入ることにした。以前飲み屋で払ってもらったこともあるし、とコーヒーを一杯払うついでに。
 差し出したハンカチは、自分のものがあるからと断られたものの、コーヒーは受け取ってもらえたことにホっと胸を撫でおろす。

「携帯、すぐに電池パックとSD抜いておいてくださいね。また時間あるときに携帯ショップとかに行くのが良いと思いますけど……」
「ありがとう、助かるよ」

 本当に、機械についで勉強でもはじめようか。ちょうど萩原が詳しいし、彼に聞いてみるのも良いかもしれない。考えながら、彼の言う通りに携帯を分解した。ハンカチで軽く水分を拭きとって、部品はそのままハンカチに巻き鞄に仕舞う。
「災難でしたね」
「あはは……」
 こればっかりは、その通りだと言わざるをえない。苦笑いしながら頷くと、彼も人の好さそうな顔で苦笑を浮かべた。

 コーヒーが湯気を立てて運ばれると、彼は砂糖を一つカップの中に淹れる。その様子を眺めながら、そういえばと話を切り出した。
「カフェ、辞めちゃったの?」
 あれから、お金を返そうとカフェに行っても彼を見かけなくなった。他の店員に尋ねるのもなあ、と思っていたので、なんとなく気にかかっていたのだ。すると諸伏は「ああ」と青年にしてはややあどけないようにはにかんだ。
「実は、就職が決まって……」
「そうなの? おめでとう」
「ありがとうございます」
 頬を掻きながら、満更でもないように目じりを染めて彼は笑った。嬉しそうな表情は、どこか私の心を温める。先ほどまで気分が沈みきっていたから尚更だ。諸伏も、私の言葉で思い出したように話題を変える。

「前電話していた人、上手く行きましたか?」

 ――電話していた人。私は以前諸伏に会った時のことを思い出す。そうだ、あの時は確か、萩原との距離を測りかねていて。諸伏が降谷を連れて店を出たのは覚えていた。今になって思い返すと、もしかしなくとも、彼には萩原の気持ちが分かっていたような態度だった。
 現に、目の前にいる彼は少し照れくさそうに、しかし確信めいたような瞳をこちらに向けている。

「……おかげさまで」

 体を縮こめるようにコーヒーにミルクを注ぎながら、私は頭を軽く下げた。諸伏は私の返事を聞くと、ふっと息を零すように、可笑しそうに笑った。