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「へえ、じゃあその人に教えてもらったわけね」

 携帯ショップの中、店員が代替え機を用意してくれている間、ソファに座っている萩原が相槌を打った。そんな偶然あるんだねえ、と間延びした口調でいう物だから、少しお婆さんのようで笑いをかみ殺した。
「でも良かった。おかげでデータは無事だったみたいだし」
 私が両親の一件で電源を切っていたため、水没してもショートせずに済んだらしい。不幸中の幸いとはまさにこのことである。萩原はうなずいてから、悪戯に私のほうを見て目を細めた。
「ちなみにソイツ、男?」
「男――だけど! ちゃんと送ってもらうのも断ったし」
 人の好さそうな青年は、あの後カフェから家まで送ろうかと提案してくれた。雨は小降りになっていたけれど、私は礼を言って断った。申し訳ないという気持ちもあったが、何より萩原の存在があったからだ。彼も、一部を見ていたから、すぐに察しがついたのだろう。「気を付けて」と言って、小雨の中を足早に去っていった。ずいぶんと、爽やかな青年だ。
 言えば、萩原は私を揶揄うように笑ってから、頭をぐしゃぐしゃと大きな手で撫でた。
「おー、よしよし。良い子だ」
「萩原くんのなかで私ってどういうキャラなの……」
「慎重派に見えて案外不用心だから」
 ――ニコっと絵に描いたような微笑とともに言われて、私は言葉に詰まる。確かに、萩原と会ったばかりのことを考えるとそれは否定できなかった。大丈夫大丈夫、なんて自分に言い聞かせて、結局彼のことを好きになったのだから、不用心にも程がある。――萩原が良い人で、本当に良かった。

 それから数分、会話を交わしていると、ふと着信音が鳴り響く。店内にいるのは私と彼くらいで、私は今携帯を持っていない。必然的に分かった。萩原の携帯だ。彼はふと携帯をとると、その太い眉をぎゅっと歪ませた。
「わりぃ、ちょっと出てくる」
「良いよ。終わったら外出てるね」
「うん。ごめんね、すぐ終わらせるから」
 ――そう告げた彼が席を外す。見るつもりはなかったが、萩原のはストレート式の携帯だったので、その画面がちらりと視界に映った。『父』――とあった。私はその文字を見て、つい心臓が五月蠅くなるのを押さえられなかった。

 萩原の背中を見送りながら、もやもやとした気持ちが胸を痒くする。いや、しかし萩原の家は仲が良いはずだ。昨日とて、実家に帰ったと言っていた。皆が皆、自分と同じとは思ってはいけない。
 私は店員から代替え機の説明を受け、修理した携帯の受け取り日を決めてから店を出た。ぱっと見た限り萩原の姿はなく、私は少しだけ店の前でぼうっと空を眺めた。昨日が嘘だったように、日が湿った空気を照り付けている。上着があると、少し汗ばむ気候だった。
「……雨、降れば良いのになあ」
 ぽつんと空に呟いた。雲が薄くかかった青空は、一つも雫を零しそうな気配はない。雨が好きだと感じたのは、萩原と出会ってからだ。雨が降る空に、その黒い艶髪が、漆黒の瞳が、高い鼻筋が、大きな背中がよく映えるから。
 こんなに中途半端な蒸し暑さなら、いっそ雨が降ったのなら、なんて想像した。傘を持ってないから、二人でマンションまで走ることになるだろうけど。けれど、そんなハプニングさえ彼と過ごせるなら良いかと思うのだ。

「――だから!」

 そんな惚けた世界を打ち破るような声色に、私はビクっと肩を揺らしてしまった。どくどくと鳴っている鼓動を押さえつけながら、周囲を見渡す。声のもとを辿ろうとして店の周りをうろついていたら、丁度店の裏手から荒い声が聞こえた。

「俺は別にそういうつもりで――聞けって、なあ!」

 その姿を目にして、私は身を固まらせていた。
 萩原だった。そこにいるのは確かに萩原だったのだが、あまりに聞いた事のない声色をしていた。そういえば、あんなふうに声を荒げる彼を見たことがない。どうやら通話相手のほうから切られたようで、萩原は小さく舌を打った。

 そのまま、ぼうっとしてしまったのが良くなかった。
 電話を終えて戻ろうとした萩原が、店の影にいた私に気づくまでそう時間は掛からない。彼はその優しく垂れた目を見開いて、私を呼んだ。気まずそうに、しかし全てを悟ったように「待たせてごめんね」と笑う。
 行こうと差し出された手を取った。先ほどの荒げた声はなりを潜めて、すでにいつものニコニコとした表情を浮かべている。

 聞かないべき、だろうか。

 しかし、彼がこうして元の態度に戻ったということは、話を追求されたくないということだ。触れないでいれば良いのか。彼の温かな手を繋ぎながら考えた。――私だったらどうだろう。父との通話を聞かれたら――萩原に、自分のことを聞いてほしいだろうか。何から話せば良いのか、分からないかも。

「……いこっか」

 そう笑った彼の表情が、いつだかの顔と重なった。
 いつものような笑顔のはずなのに、今見た表情はなぜか寂し気だ。
 違う、彼はきっと、聞いてほしくないわけじゃない。そう思ったのは殆ど直感で、しかしどこか確信めいたものがあった。それは、もしかしたら殆ど萩原の癖なのかもしれない。人の感情に敏く、平穏を好む彼の願いが篭ったような癖――。

「人には添うてみよ、馬には乗ってみよ……」

 私は喉を鳴らして、降谷に聞いた教訓を繰り返す。萩原はきょとんと表情を固まらせて「なんて?」と私に聞き返した。その深い黒色を見上げて、私はフウと一度息を吐いた。

「何か、あった? あったなら、私は知りたい」
「……いーや、実家の話だし。別に大したことじゃ」
「大した事じゃなくても」

 私は、自分でも珍しいと思うくらいにその言葉に食い下がった。そう、大したものじゃなくても良い。それが今貴方を苦しめているのなら、今貴方にそんな顔をさせるのならば。

「知りたい。君が……何を考えているのか、知りたい」

 零れていく本音は、再び拾い集めることはできない。落ちたら落ちるだけ。雨のように降り注ぎ、水たまりのように溜まっていく。都合が悪かったらどうしよう、拒まれたらどうしよう。不安に思う心と、萩原がこんなことで拒絶するわけがないという、彼の愛してくれた温かさが鬩いだ。
「ごめん、あの、言いたくなかったら無理に言わせたいわけじゃなくて……。ただ、萩原くんって、自分が嫌だった話とか……しないから……」
 しりすぼみに告げれば、萩原はその厚い唇を何度か開閉した。話すかどうか、悩んでいるように見えた。

「……嫌いにならねえ?」

 萩原は、一言、呟くようなイントネーションで私に尋ねる。
 ならないよ、なるわけがない。その想いが溢れて言葉にできなくて、私はひたすらに頷くことしかできない。すう、と頭上で息が呑んだ音が聞こえた。

「俺の実家さあ、昔倒産してんだよ」

 ぎゅうと繋いだ指先の力が強くなった。驚きはしたが、彼はこのことに対して何か思っているわけではないらしい。案外、そう告げる彼の表情も声色もあっけらかんとしていた。
「そんときにまあ、新しい店舗広げようとしてたのもあって、いろいろ借金とか……」
 色々ね、彼は困ったように笑う。繋いだもう片側の手が、彼自身の耳たぶを弄んでいた。
「借金っつっても、まあ馴染みの人とかで……取り立てとかはないんだけどさ」
 そして彼は、目の表面を揺らした。揺れると、その黒い瞳がなお輝いて見えて綺麗だ。綺麗なのに、その顔を見ていることに心が痛んだ。

「俺の姉ちゃん、ケッコーな玉の輿で、今なんて金持ちだし……っ。俺も今給料貰っててさあ、でも親父頑固だから、誰がなんつっても金受け取ってくれねえし」

 ぐず、と鼻水を啜った声は揺らいでいた。そうか、彼は悔しいのか。好きな家族の役に立てないことが、彼の良心を傷つけているのか。優しい人だから。
「でも、もう歳も歳だから、ちゃちゃっと貰って返せば良いのによぉ……」
 私はごめんと顔を逸らす彼を眺めて、そっと繋いだ手を握りなおした。
 そうだね、と相槌を打つ。憎らしいほどに、私は彼の心が理解できなかった。萩原のことが好きなのに、寄りそう事一つできやしなかった。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
 と、慰めにもならない言葉を吐くことしかできなくて。私はその心を誤魔化すように萩原を抱きしめる。

 いや、もしかしたら、今のこの気持ちが彼の気持ちに近いのかもしれない。確かに悔しかった。好きな人の助けになれないことは、歯がゆく、そして心がグサグサと刺されるような気持ちだ。

 本心を知ったら全部上手く行くと思っていたのに、そんなのは結局小説のなかの話なのだと、抱きしめた広い背中に腕を回しながら考えてしまった。