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 湿気を含んだ空気が、私の毛先の向きをアチコチに跳ねさせた。うまく纏まらない髪を鬱陶しく耳に掛けながら、時計を一瞥する。誰も見ていないというのになんだか後ろめたいままで、こっそりため息をついた。
 あれから二週間が経つ。萩原もあれから何度か実家と話し合いをしたらしく、翌週には目元を赤くしながらだが、ややスッキリとしたような表情を見せていた。ありがとうと礼を述べる彼に、私は良かったねと肩を叩いた。
 
 だというのに、私の心は空模様と同じく晴れないまま、鈍い色を広げている。
 彼が勇気をもって話してくれたことを、どこか冷めた視線で眺める自分が嫌いだった。結局は、親しい家族のいる彼に嫉妬をしているのだろうか――。はたまた、生まれの違いを悔やんでいるのだろうか。自分でも、どうしてこんなに心の奥からけぶたさを感じるのか、よく分からないのだ。
 とにかく、こんな気持ちは初めてだった。今まで出会った彼氏がどれだけ両親の話をしようが、別にどうと思ったことはない。寧ろ、将来を考える上では両親との仲が良いことをプラス面に捉えていたくらいだった。

 何を暗く考えることがあるのだろうか。
 彼の家庭は彼の家庭で、私の家庭は私の家庭だ。同じように想い合う必要などないし、萩原だってきっとそう言うだろう。分かっている。頭では分かっていた。

 肌がべたつく。しとしとと、細く降り注ぐ雨が降る。鈍い鼠色の雲を見上げた。項にじんわりと汗が滲む。


『――お父さんの迷惑になっちゃいけないのよ』

 幼いころから、母の口癖だった。
 父の迷惑になるようなことは避けてきたはずだった。仕事で忙しいときはジっと部屋の隅で絵を描いて過ごしたし、無理に抱っこを求めたことだってない。

『母さんの負担にならないように、しっかり学業に励むんだぞ』

 幼いころから、父の言いつけだった。
 その通りに、私は勉学に励んだ。母が宿題を見なくても済むように。学年で上位を取って、進学の心配をさせないように。

 代替え用の携帯電話を握りしめた。別に虐待を受けていたわけでもない。あたたかな家があった。一通りのものは揃っていて、進学費用に困ったこともない。世間的に見ても、きっと恵まれていた。

 だからこれは私の贅沢なのだと思う。いっそ貧乏でも良かった。人に頼んで買っただけの、豪勢なクリスマスプレゼントを望んでいたわけではない。その頃から、私の時間だけが止まっている気がした。そんなはずはないのに、両親に認められないと前に進めないような――そんな気になってしまう。


「みずきさん」

 ――こん、と軽く窓がノックされた。
 私はハっと意識を戻して、助手席の扉を開けて覗き込んだ顔を見る。少しだけ、ギクっと心が軋んだ。それを誤魔化すように彼を呼んで笑うと、背後から松田が顔を出した。松田の顔を見た瞬間に、一瞬安堵してしまったのが、自分でも分かった。

「松田くん。お疲れ様、乗ってく?」
「あー、いや。そうしてえのは山々なんだがな……」

 歯切れ悪く癖毛頭を掻きまわす姿に首を傾ぐと、まるで見物客のように、萩原の大きな体の後ろからひょこひょこと人影が顔を覗かせた。そして、私は印象深いブロンドを見つけて目を瞬く。
 見間違えるほどがないほど特徴的な容姿は、私を見るとまったく同じように垂れた目をぱちくりとさせた。

「降谷くん……?」

 と呼ぶと、彼の隣にいた青年が「橘さんだ」と口にした。
 申し訳ないが、降谷の容姿が目立ちすぎて今の今まで気づかなかった。傍らにいた青年は、ツンとした見覚えのある目つきをにこやかに微笑ませる。――弁解させてほしいのだが、こればっかりは本当に、降谷の姿が際立ちすぎていた所為だ。
「諸伏くん……」
 そこまで呟いて、一瞬で頭の中の思考がグルグルと巡った。そういえば、就職が決まったと言っていた。諸伏はともかく、降谷の似合わないリクルートスーツを見る限り、もしかしなくても――。

「あれ。降谷ちゃんと諸伏ちゃん、知り合い?」

 きょとんとした垂れた目つきに、私は「そうみたい」と頷いた。そのまま雨の中に顔見知りを放っておくのも。――と、私はひとまず彼らを車の中へと招き入れたのだ。



 向かったのは松田のマンションだ。どこか飲み屋でも良かったのだが、さすがにリクルートスーツ姿の成人男性が四人揃っているのは、六月下旬のこの季節、なかなか目立つものがあった。私の家でも良かったのだけど、萩原ににこやかに却下された。
 途中でかつ丼をテイクアウトして持ち寄った。どうやら靴を集めることが趣味らしい松田の玄関は、ごちゃごちゃと高そうな靴やサンダル、靴磨きなどが入り混じっている。私たちはそのわずかな隙間に自分たちの靴を押し込んで、リビングに向かった。
 汚れているのは玄関だけで、リビングは案外小綺麗に片付いている。――否、片付いているというよりも、物がなかった。必要最低限のソファとテーブル、テレビとゲーム機。テレビ台に押しやられるように詰め込まれた工具セットだけが、ここが松田の部屋なのだと物語っている。

「そうか、成程、萩原か……」

 降谷が、ぽつりと呟く。それに萩原が「何が」と尋ねたのに、私はひゅっと息を呑んだ。だって、まさか降谷と萩原が友人同士になるだなんて思わないだろう。――まさか、警察学校の同僚だなんて。降谷には私と萩原の今までの関係すら筒抜けなのだ。

「例の軽薄男が……」
「わー、ストップ! お願いだから言わないで……」

 私は独り言ちる降谷の口元に手のひらをビシっと差し出した。顔に血がのぼっていくのが分かる。耳やら顔やらがぐんと熱くなる。傍から見ていても、その様子がよく分かっただろう。今すぐ耳に掛けた髪を全て下ろしたい。

「なになに〜、俺結構そういうの嫉妬しちゃうんだけど」

 ひょいっと前のめりになった位置を、大きい手が引き寄せる。私は萩原に「ごめん」と謝りながら、しかし必死に視線で降谷に訴えた。しかし、降谷はそよ風でも受けたかのように口を噤むことなく続けた。

「別に、告白もしてない女に手を出した男ってことを言っただけだ」
「ぶふっ」

 噴き出したのは諸伏だった。飲んでいた麦茶が口の端から零れる。萩原の表情が硬直する。私は彼の手に抱えられたまま、「そこまでは言ってないんだけど」と横からフォローを入れた。
「え、なに。降谷ちゃんに相談してたって、俺の話?」
 車の中で、諸伏と降谷と出会った経緯はさらりと話しておいたのだ。もちろん、萩原のこととは話さなかったけれど。萩原はきょとんとした目つきで私のほうを覗き込んだ。私は精いっぱいに視線を逸らしながら小さく頷く。

「うん、まあ……」
「はは〜あ……分かった。さては俺に電話してきたの、降谷ちゃんのせいだろ」
「すごい。よく分かったね」
「みずきさんらしくねえタイミングだとは思ってたんだよね」

 どうやら、降谷は警察学校でもこのままの性格なのだろう。出会った時から裏表のない青年だとは思っていたけれど。松田が、かつ丼の蓋をあけながら萩原の肩を軽く小突いた。

「まあ、コイツが軽薄っつーのは合ってるとして……」
「いや、間違ってるでしょ。俺すっげえ誠実よ? ねえ」

 萩原はぎゅうと私の体を抱きしめながら問いかける。彼が誠実なのは、それはそうだと思うのだけれど、人前でこうも引っ付かれるのは普通に恥ずかしい。高校生のカップルならまだしも、こちとらいい歳の女なのだ。人前でイチャイチャできて嬉しい〜という年齢ではない。

 けれど、かつ丼を食べながらテーブルを囲む時間は、なんとなく幸せだと思えた。先ほどまでの憂鬱な気持ちなど、気づけば忘れるほどに。こうして触れ合っている肩だって、やっぱり暖かくて好きだと思うのだ。
 笑いながら、次は伊達も呼ぼうという松田の提案に私は耳を傾けた。