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 見上げた空は、瞬く星がずいぶんと近くに感じられた。
 降谷と諸伏は、このまま松田の家に泊まるらしい。萩原も泊まればと言ったのだけど、彼はぴったりと張り付いて私の家に向かっていた。駐車場からマンションに向かう途中、水たまりを踏んだ。ぴしゃっと私のパンプスに飛沫が上がる。
 萩原は、髪と同じ艶やかな黒色の瞳を伏せながら、ぽつぽつと彼らのことについて語った。癖の強い奴らだけれど、根は良い奴であること。彼らのおかげで厳しい学校生活も、なかなかに楽しいものであること。
 私はその話を聞きながら、自分のことのように心が浮ついた。うんうん、と相槌を打っていたら、ふと彼の視線が、その髪を透かすようにこちらに向いた。蒸した空気のなか、彼の瞳だけが透き通って見える。肉のない頬や高い鼻筋に掛かる髪は色っぽくて、私はその髪を指で掻き上げ、小さく頬にキスを落とした。
  
「えっ」

 どうやら、そういうつもりではなかったらしい。
 萩原はカっと顔を赤くしてから、口元をごにょごにょとさせて、しかし堪えられなかったというように私の頬にも唇を押し付ける。萩原の匂いが、色濃く私の頭を犯した。
「び……っくりしたあ」
「そんなに?」
「うん。心臓止まった」
 はぁー、と大きく息をつきながら、満更ではなさそうに私の体を抱きしめる。キス一つでそこまでニコニコとされると、私も悪い気分はしないのだ。ふふ、と照れ笑いを浮かべながらももう一度反対側の頬にキスをする。
「なあ、俺のこと降谷ちゃんに何て言ってたの?」
「……先に言っとくけど、悪い事は言ってないからね」
「勿論。みずきさんがそんな風に言わないの知ってるよ。降谷ちゃんの性格もね」
 萩原の言葉に、私は軽く安堵の息を吐いた。
 良かった。別に降谷を恨んでいるわけでもないし(事実、助けてもらったし――)、妙な誤解を受けるのは嫌だった。私は降谷との経緯を話そうとして――黙った。

 だって、それを話すことが恥ずかしかった。
 初めて会ったのは萩原のキスシーンを見たことで泣いてしまった時だし、二度目に会ったときも萩原にキスされたことを相談したときだ。どうして、それを本人に赤裸々に話せるだろう。
 というか、あの時は付き合ってもいなかったのに、キスシーンひとつであれだけ動揺したのを知られたくなかった。私が視線を逸らして言葉に詰まっていると、萩原がやや意地悪そうな声色で「ほほーお」と頷く。
 
 アイロンがしっかりと掛けられた白いワイシャツが、触れるとひんやりと冷たかった。彼は背後からしっかりと私の脇を抱えると、そのままずかずかと部屋に向かう。なんだかいつになく強引な手つきだったので、私はきょとんとしたまま、けれどまあ部屋の前に来たので鍵を開けた。

「ね、一緒に入ろ」

 ぺたぺたとフローリングを歩いているときに、ニコっと萩原が言った。初めは何を言っているのか分からなくて、首を傾げてしまった。萩原はにこやかなままにネクタイを解く。その仕草で、一つの候補が頭を過ぎった。

「……入るって、お風呂?」
「ピンポーン」
「えぇ、なんでまた……いや狭いよ絶対」
「裸の付き合いすりゃあ、隠し事なくなるかなあ〜と」

 そんな、トンデモ理論だ。いや、それと天秤を掛けても、降谷との出会いを話すことはやや憚られるものがあった。風呂に入ったことはなかったけれど、裸を見るのは初めてではない。案外、いけるのでは――。と、私は二つ返事でその提案を呑んだ。


 ――が、それが間違いだった。向かいあっているときの比ではないくらいに狭い浴槽では体が密着する。彼の肌が触れる場所のすべてから、私に熱が伝わっている気がした。時折首筋に、その髪の先から零れる水滴が落ちる。その刺激さえ、私にとっては耐えられないものだった。

 最初から予想をつけておくべきだった。萩原は、何が何でも降谷とのことを聞きたいようで、たぶん私が恥ずかしがっていることを承知で体をぴったりとくっつけてくる。長い脚は、器用に折りたたまれていた。
「だから〜……。たまたまだよ、たまたま」
「たまたまねえ。降谷ちゃんが歩いてるみずきさんに声掛けたってこと?」
「それは……」
「俺そういうところは嫉妬深いんだよなあ、残念だけど」
 ――全然残念そうじゃない。
 寧ろどこか楽し気な雰囲気で、萩原は濡れた頬をぴったりと私の背中にはっつけた。私よりも高い体温が、湿った肌が、そこから伝わる脈がバレてはいないだろうか。

「それとも、俺には話せないようなこと?」

 ひそっと耳に唇が寄せられた。
 たぶん、わざとだ。低く色っぽい声が狭い浴室に反響した。否、もしかしたら反響したのは、私の頭の中だったかもしれない。ちらりと背後を振り向いたら、垂れた目つきは挑発的に目元を細めた。

 その笑みを見たら、負けず嫌いな心が起き上がった。
 確かに隠し事(――というのだろうか)をしているのは申し訳ないけれど、今の萩原は私を揶揄うことで楽しんでいるように見えたのだ。ニヤニヤとした口元に、私は唇を軽くひん曲げた。

 その表情を見てか、萩原が急にぎゅうと腰へ腕を回してきた。
「ごめん、みずきさん。怒った?」
 急に甘ったれな声色になるあたりも、彼らしい。正直うっと心に来たけれど、わざとふいっと顔を背けた。
「怒っちゃったかもね」
「えぇ、ごめんって。もうしないよ、ぜってえ」
「ふ、あははっ、調子良いなあ」
 先ほどまでの色気はどこへやら、急に大型犬のように、つむじをぐりぐりと背中に押し付けてくる。それに堪えられなくて、私は怒ることも忘れつい声を上げて笑ってしまった。巻き付いた腕が、私が笑うたびに合わせて揺れる。
 お腹、最近たるんでなかったかな。そんなことが、今更ながら心配になった。ていうか、背中毛だらけだったりしないか。萩原はきっと気づいたとしても言わないだろうけど、見えない場所だから余計に気になる。

「お詫びに頭洗ったげようか」
「えー、良いんですか。洗ってもらっちゃってぇ〜」
「任せてくださいよ、俺こう見えても腕は一流なんでねぇ」

 ふざけたことを言いながら、萩原が私の頭をシャワーで濡らしていく。しっかりとした胸板に後頭部を預けながら、彼の間延びした鼻歌を聞いていた。器用な指先が、髪の毛に触れる。心地の良い力加減だった。本当に、こういうことをさせたら天下一品だと感心する。
「あぁー、気持ちいい……」
「マジ? 俺上手いでしょ」
「うん、かなり上手」
 湯気のたつ天井を見上げる。少しだけ。少しだけ、そのシャンプーの仕方はどこで覚えたのとか、誰に上手って言ってもらったの、とか。そんなことが気になった。今更そんなことを言っても仕方ないか。

 そう思うと同時に、ああ、知らないことがあるのって、確かに不安なのだとも思う。私はぼんやりと頭を揺さぶられながら、彼を呼んだ。

「降谷くんとはね、研ちゃんと会った少し後に会ったんだ」

 私の頭をぐしぐしと泡立てていた指先が、一瞬ピクリと震えるのが分かった。けれど、彼は手を止めず、穏やかなままの声で「うん」と相槌を打つ。

「ほら、一回飲みの帰りに女の子とキスしてたことあったでしょう。後から友達だって分かってさ……」
「ああ、あったね」
「あの時、なんか分からないけど悲しくて、逃げなきゃって思って……。泣いてた時に声を掛けてくれたのが降谷くんだったんだ」

 洗い流されていく泡のように、少しだけ心が軽くなった。彼はどんな顔をしているのかな、気になってちらりと視線を彼の方に向けると、驚いた表情と視線が合った。

「……泣いたの」

 と、確かにそう呟いた。それは疑問形だったのか、怪しい発音をしていたけれど、恐らく私に投げかけられたものだろう。――「うん、泣いてた」。それは、素直に言葉にできた。

「――……俺が見つけたかったな」
 
 萩原は、私の髪をその器用な指先で梳かしながら、太い眉を緩やかにして言った。それから、私の額にキスを落として、熱にのぼせた体をもう一度強く抱きしめた。今度は、恥ずかしくなかった。ただひたすらに、その熱を愛おしいと思っていた。