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 梅雨が明けると、蒸していた空気は急に熱を持ち始めた。オフィススタイルもすっかり半そでが定着し、マンション前の並木も緑の葉を照らすようになる。風に揺れると、葉が擦れ合ってサワサワと音を鳴らした。
 萩原もリクルートスーツが窮屈そうで、長い髪を後ろに束ねていた。中途半端な長さのせいで、襟足で結ばれた毛は動物の尾っぽのようにピョンと跳ねている。シャツと髪の隙間に、太いが色の白い首筋が覗いた。

「うわあ、夏でもスーツ着用なんだね」
「義務だからね……。あー、早くTシャツ……」
「はいはい」

 げっそりとした彼に、置いてあった部屋着を手渡す。彼はお礼を述べてから、もそもそと着替えを始めた。まだエアコンは早いような気がしたけれど、暑そうな彼を見ていると可哀想で、冷房を入れた。
 水だしの麦茶をグラスに注ぎリビングに帰ると、扇風機の風を浴びてソファに後頭部を預けている萩原がいた。いつものように隣に座ると、暑い暑いとぼやきながら、重い頭がこちらに寄る。
「ごめんね、今冷房つけたけど」
「いや、大丈夫……。みずきさん、全然汗かかねえ」
「まあ、暑がりなほうではないかな……。寒いのは苦手だけど」
「確かに、手冷たいよなあ」
 と、私の汗ばむ手を取った。
 彼の手も汗ばんではいたけれど、私の汗に触れるのが申し訳なくて反射的に後ろ手に隠してしまう。いや、だって、ねちょってしたから。萩原は少し意外そうな顔をしてから、「気にしないよ」と苦笑いした。

 グラスの中で氷がゆっくりと溶けていく。氷が、ころんと透き通ったガラスにぶつかる。その氷が小さく米粒大になるまで、萩原はため息をつきながら学校の中の出来事を話してくれた。聞く限り、なんだかずいぶん問題児みたいだ。彼らを担当する上官も大変だなあと思って、心の奥で同情した。
 コンビニ強盗を捕まえただとか、上官が首を吊られそうになったのを発砲して助けただとか――。そしてそういった出来事に必ず絡むのは、降谷、諸伏、伊達、松田なのだ。それはまた、なんというか。
「みずきさんは、仕事忙しい?」
「今は落ち着いてるよ。強いて言うなら、エアコンが効きすぎってことくらい」
「男は暑がりだからね、体冷やさないようにして」
 私はその言葉に笑顔で頷いた。そのあとも話を続けている時、なんだか萩原の雰囲気がいつもと違うような気がした。声色が、心なしか弾むような。しばらくは気のせいかと思っていたのだけれど、グラスに口をつけるときも薄っすらと口の端が持ち上がっていて、やっぱり良いことがあったのかなあと思った。

 はらっと束ねた髪の一束が落ちて、綺麗な輪郭を透かしていく。眩い日差しの中、その影がやけに綺麗に映った。柔く細められた目つきが、尚更眩かった。耳たぶに残った塞がったピアスホールの痕が、よく目立つ。

「……なんか、良い事あった?」

 私は、やや緊張しながらも尋ねてみた。すると、萩原は自らの頬を押さえ、ニヤニヤとした表情を隠せない、というように口角を持ち上げる。
「まあね。もうすぐ八月だろ?」
「うん、そうだけど」
「そうしたら、盆休みがあってさ。警察学校も一週間閉寮なのよ」
 一時帰宅ってやつ? ――、彼は私の肩に凭れながらご機嫌に語った。そして、ちらりとこちらを見上げる。

「そうしたら、みずきさんと一週間いれんだよ?」
 
 そう告げた彼の頬の、瑞々しさと言ったらない。嬉しいという感情がそのまま表情に変化したような、真っすぐに感情を伝える笑みは、私の心を大きく打った。飛び上がって彼を抱き寄せたい衝動を抑え込みながら、私は「でも、実家とか」と口籠る。
「やっぱ一週間は迷惑だったか」
「まさか! 私は良いんだけど」
 寧ろ、願ったりだ。盆休みはいつも実家など関係ないし、精々友人と一度遠出をするかどうか。その程度に考えていた。萩原が一緒に過ごしてくれるというならば、それ以上に嬉しい事はなかった。
「やった、どっか行きたいとことかある?」
 ――そういえば、彼と遠出をしたことがない。
 そもそも付き合ってからはすぐに彼が忙しい時期だったし、仕方のないことだったけれど。萩原と一緒なら、どこでも楽しそうだ。折角遠出だというのだから、普段は見れないものを見たい。考えていると、萩原がすぐに提案をした。もしかしたら、最初から考えていたのかもしれない。

「じゃあ、海とかどう」
「海……行きたい!」
「うん。一緒に花火買っていこうよ」

 嬉しかった。旅行に誘ってくれたことも、私といたいと言ってくれたことも。頬が緩むのを隠すことすら忘れて、私の頭はすでに当日の服装やら持ち物やらを考えていた。旅行だなんて、いつぶりだろうか。心が躍る。普段の彼ももちろん好きだけれど、きっと浜辺でもスラリとした手足がよく映えるだろう。

 浮かれながらスケジュール帳を開き、休暇の日程を埋めていく。旅行に行く日以外も、どうやら私の家に泊まるつもりのようだった。そこまで考えて、ふと疑問が浮かぶ。彼は、一体いつ彼自身のマンションに帰るのだろう。
 通常の土日も大概は私の部屋にいるし、そうでないときは松田の部屋か実家だ。彼が彼のマンションに帰るのは、ずいぶんと低い頻度なのではないだろうか。

「ねえ、家賃ってまだ払ってるの?」
「え? まあ、殆ど倉庫みたいなものだけどね。服が実家より取りに行きやすいし」
「そっか……」

 やっぱり、その口ぶりからしても、殆ど帰ってはいないのだろう。
 萩原のマンションは然程都会にあるわけではないけれど、そのぶん小綺麗で部屋にゆとりがある。大学生のバイト代では、きっとやや敷居が高いようなマンションだと思った。だからこそ、使っていない部屋に家賃を払い続けているのも、少し勿体ないような気がするのだ。

 ――いっそ、私の家で良いのに。

 と、浮かんだ言葉は必死に喉の奥で飲み込んだ。
 さすがに、それを断られたら落ち込んでしまう。付き合ってまだ浅いのだから、せめてもう少ししてからでも――。ぐちぐちと自分の心に言い訳をしながら、私は頷いた。

「――まあ、みずきさんの家に住みたいなあって思ってるくらいだよ」

 萩原が、照れくさそうに笑う。
 人差し指が、所在なさげに耳たぶを弄った。私は息を呑む。彼と、同じようなことを悩んでいたことに。そして、彼はそれを言葉にできる勇気を持っているということに。
 萩原は、空気を読む男だ。ワザとでない限り私が困るようなことを言わないし、しない。こちらが重苦しい空気になることを、彼は望まない。だからこそ、不安だったはずだ。だから、自信なさそうに柔らかな耳たぶに触れているのだ。
 それで、私が困ってしまったらどうしよう。もう気軽に来れなくなったらどうしよう――。そんな彼の心の嘆きが、その表情から伝わるようだった。

 私はひっそりと深呼吸をしてから、玄関に向かう。そしてむんずと掴んだスペアキーを、少し泣きそうになりながら萩原の手のひらに握り渡した。

「わ、私も……思ってたから。そうやって……だから、泣かないで」

 震えた声で告げると、萩原はキョトンとしてから、お腹を抱えて笑った。ごろんとソファの上に寝転がりながら一通り笑って、ひいひいと息を苦しそうにしながら涙を拭う。
「泣いてるの、みずきさんのほうなのに!」
「え……わ、本当だ」
 目じりに滲んだ涙に触れて、私はようやく自分の視界が歪んでいることに気づく。萩原はお腹を押さえながら、しかし大きな手のひらには玩具のようにしか見えない小さな鍵を、大切そうに両手で握りしめていた。

「うん、でも嬉しいよなあ……」

 子どもが宝物を手にしたような、ニヒヒと歯を見せた笑顔を見て、私は振り絞った勇気に感謝する。どうして、彼が泣いていると思ったのか――。それは分からないけど、もしそうだとすれば、私の涙が彼の涙であれば良い。ひたすらに、私はそう思う。
 大きな体に倒れこめば、彼は嬉しそうに頬を赤らめた。