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「橘さん!」

 後ろからバタバタと騒がしい足音が聞こえて、振り向いた。先日梳いた髪先が、軽やかな気分にさせる。振り向いた先で、爽やかな顔つきが焦ったように眉を顰めていた。私がにこやかに応えれば、彼は申し訳ない、と頭を下げた。
「すみません、さっきの会議室……。俺、取るの忘れてて……」
「ああ、良いよ。誰か気づいた人がやれば良いし……」
「いえ、俺が任されてたんです。会議の内容で頭がいっぱいになっちゃって……飲み物も」
「どうせ経費で落ちるんだから。気にしないで」
 私は緩く頭を振ったけれど、どうやら彼――藤井は何度もそれを気にしたように眉を下げて「でも」と言う。ちらりと、シルバーの腕時計を見遣った。もうすぐ昼休憩だ。悩みながら、私は彼に昼食を一緒にどうかと提案した。藤井は快く、その人懐っこそうな顔を綻ばせてみせた。


「本当に良かったんだよ? まあ、ありがたく食べるけれど」

 いつもより一つグレードアップした社食に苦笑しながら、私は手を拭いた。藤井はとんでもないと頭を下げながらも、彼の手元にある弁当箱の包装を解いていく。男の弁当にしては珍しく野菜が多めに入っていたので、もしかしたら彼女の手作りかもしれない。わざわざ食堂に足を運ばせて申し訳ないなあと思った。
「いや、本当に俺の気が済まないので……」
「君、本当に松田くんと萩原くんの同級生?」
「あはは。いやあ、アイツらには負けますけどね」
 と苦笑する姿を見る限り、高校の時から彼らは変わらない雰囲気だったのだろう。萩原は女には集らないが、男に対する態度はどちらもどんぐりの背比べレベルだ。

「橘さんは、毎日社食ですか?」
「最近はね。お弁当も良いんだけど……相手がいないと作り甲斐なくて」
「そんなもんですかね」
「そうそう。だから感謝した方が良いよ」

 笑いながら言えば、彼はいたって真剣に頷いた。なんだか微笑ましい。藤井は萩原たちから聞いた印象とは正反対で、紳士的でさわやかな好青年だ。そのことを萩原に伝えたら、「恋人ができると変わるのかねえ」と笑っていた。案外、彼の言うことも的外れではないのかもしれない。
「にしても、萩原と橘さんって、俺まだ少し信じられないんですよ」
 藤井は可愛らしいキャラクタ物ーのふりかけを白米に掛けながら、神妙そうに切り出した。私はチキン南蛮をほおばりながら、首を傾げる。
「だって、橘さんってすごく真面目でキッチリしてるイメージで……萩原は……」
 それから、彼は言葉を探すようにモゴモゴと口籠った。
 ――私の手前だから、言葉を選んでいるのだろう。私は苦笑して「大丈夫だよ」と告げた。すると、やや言いづらそうだったけれど、彼は咳払いしてから言葉を続けた。
「すっげえいい加減な奴じゃないですか」
「そうかな?」
「そうですよ! 借りたモンは返さねえし、一人だけトンズラこくし、人の女に手ぇ出すし……」
 そこまで言って、はっとしたように「すみません」と口を噤んだ。一瞬ドキリとしたけれど、まあ、昔のことだ。学生の時はヤンチャしていたなんて、よく聞く話だし――。

「その、手出したっつっても、別に浮気とかじゃなくて……。ホラ、あいつ無条件にモテるから、元カノが勝手に好きになっちゃっただけなんですよ」
「え? あ、なるほどね……。私、落ち込んで見えた?」
「かなり……。すみません。無神経でした」

 どうやら彼から見ても分かるほどの変化だったのだろう。がんばれ、表情筋――。自分の頬に向かって投げかけながら、私は首を振った。
「大丈夫。それに、萩原くん優しいし」
「へぇ……やっぱ好きな人できると変わるもんですね」
「でも、それは昔からでしょ」
「うーん、確かに昔から女は尽きませんでしたけど」
 藤井は苦笑してから、その爽やかな目元を柔く細めた。カットされた春巻きにかぶりつき、美味しそうに頬張る。それから、彼によく合う爽やかな笑顔を浮かべた。

「でも、彼女といる萩原ってどこか窮屈そうでした。普段があんなのってのもあると思うんですけど……松田とかといるほうが、よっぽど伸び伸びした風で。なんだか我慢してるんじゃないかなあって」
 
 その言葉は、なんだか私の体を強張らせる。少しだけ、彼の言っていることが分かるような気がした。松田といるときの萩原は、取り繕うことをしない。幼馴染で気心が知れていることもあるのだろうが、普段は聞かないような荒い口調が零れるのを知っていた。
「……でも」
 ごくん、と保温ポットの中の味噌汁を流し込んで、彼はどこか懐かしむような視線を私に向ける。

「橘さんといるときの萩原は、すごく楽しそうでした。好きだって視線が語ってるみたいで――なんて、ちょっと気障かな」

 照れくさく肩を竦めた姿に、頭の中で今までの彼の表情が巡った。心の底から、安堵したのを覚えている。もちろん、そんなこと、萩原に聞いてみないと分からないけれど。
「だから意外だったんです。相性良いんだなーって思って」
「……藤井くんも、すごいお似合いだと思うよ」
「マジすか! いやあ、勿体ないくらい可愛いんです」
 見てください、と手帳に挟んだ彼女の写真を見せてくれて、私はその写真が滲むのを、目頭を押さえて堪えた。写真の中の女性は可愛らしい垂れ目の目じりに笑い皺を湛えて、大きな口元を笑ませていた。その笑顔が――どことなく、頭の中で萩原に重なった。


 それから昼休憩が終わる直前、藤井が思い出したように声を上げる。そして何やら鞄を探ってから、これ、と手渡されたのは一枚のシングルCDだった。
「これ、高校の時アイツから借りパクしてて……すみません」
「ああ、分かった。返しておくね」
「良かった、助かります」
 見たことのないバンド名だった。藤井曰く、昔から好きなバンドなのだそうだ。そうだったのか、まったく知らなかったと驚くと、彼は目を丸くしていた。

「いや、昔っからこのバンドだけは追っかけてたんで……でも、趣味が変わったかもですね」

 藤井は苦笑を浮かべ、それから今一度、深く頭を下げていった。
 
 私はそのバンド名が気になり、試しに帰宅してから、パソコンで調べてみた。邦ロックのバンドらしく、現在も活動中だ。悪いとは思いながら、気になったのでパソコンに取り込んで聴いてみた。熱いギターのイントロが私の鼓膜を揺らす。

 正直に言って、まったく好みではなかった。
 歌詞も共感できなかったし、がなるような熱い歌い方よりも私は伸びるようなゆったりとした歌い方が好きだ。けれど、これが案外、一度聞くと頭から離れない。口ずさみながら、私はCDショップでそのバンドのアルバムを購入した。

「へぇ、もうベースの人は脱退しちゃってるんだ……」

 藤井から受け取ったCDから除名された男の名前を眺めながら、私は小さく頷く。その日から、気づくと私はそのバンドの音楽を聴いていた。今まで聴いた事のないようなジャンルだったけれど、萩原がいないときにそれを聴くと、どこか元気がでるような気がした。


「あっれ、それ懐かしい歌」


 スペアキーを使って帰って来た萩原が、風呂上りの濡れた髪を拭いながら嬉しそうに顔を綻ばせた。私はそこでようやくのこと、CDの存在を思い出す。待ってて、と件のCD部屋から持ち出し、彼に渡す。
「ああ〜、藤井だろぉ。そういや貸したままにしてたっけな」
「うん、ごめんね。勝手に聴いちゃって……」
「良いよ、でも意外。橘さん、こういうの全然聴かなそう」
「……そうだね」
 私でも、そう思う。きっと、萩原という存在がいなければ、CDの存在を知っても聴こうとは思わなかったかもしれない。聴いたとしても、興味がないと切り捨てていただろう。

「……研ちゃんが好きな歌だと思ったら、好きになってきちゃって」

 自分でも分かるくらい、頬が緩んだ。ニヤニヤ――よく言ってもデレデレとした笑顔をしていたと思う。まったく、十代の青春でもあるまい。けれど、萩原は優しい男なので、そんな私を見ても愛おしそうに長い腕を伸ばすのだ。私はそれに甘えて、まだ少し湿った体に抱き着いた。