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 気温が高くなると、警察学校の近くまで迎えに行ってから、駅のロータリーで待つことが辛くなってくる。今まではぼうっと過ごしていた時間だが、さすがにこのままアスファルトの反射を受けていては熱中症になり兼ねない。
 暑さを凌ぐために入ったのは、以前伊達と訪れた駅前のカフェレストランだった。恐らく昔からあるのだろうレトロな造りで、以前訪れたときと同様オレンジの掛かったランプが店内を温かく照らしていた。夏を迎え、氷の旗が入り口付近で揺れた。
 
 注文したアイスティーを楽しみながら、萩原に待ち合わせ場所を伝えようとメールを打っていた。メールではまだ少し掛かるとのことだったので、音楽プレイヤーにイヤフォンを繋ぎ、音楽を聴きながら待つことにしていた。

 あれからというもの、萩原が好きだというバンドを私も頻繁も聴くようになっていた。彼は私が聴くといえばCDも快く貸してくれたし、確かに共感こそしないのだが、どこか力強くワイルドな歌声にはどこか憧れる色がある。萩原は穏やかな人だけれど、その自由さが彼らしくて、それが癖になった。
 途中で揉め事があったらしく、それを機にベーシストが一人脱退している。私は、それ以前の、やや古い楽曲が好みだった。まるで彼らの青春を覗き見ているような、そんな気分になれた。

 プレイリストが一周するかしないか、というところで、ふと肩を叩かれた。振り返ると、先日見たばかりの華やかなアイスグレーが、私を見て軽く微笑んだ。私は慌ててイヤフォンを耳から外す。
 驚いた。以前会った時も着ていたけれど、その日本人離れしたブロンドにリクルートスーツがあまりに不釣り合いだ。降谷は私の向かいの席に、隣にいた連れと共に腰を下ろした。

「伊達さん」
「よお。こいつらから聞いたよ、知り合いだったんだって?」
「とんでもない偶然でして……」

 どっかりとソファに腰を下ろした男は、以前見たときのまま、がっしりとした体をしていた。寧ろ、以前よりも些か大きくなっただろうか。スーツを着ているということは今からどこかに帰省するのだろうが、その前にわざわざカフェレストランに寄るのか。まあ、確かに良い時間ではあるけれど。少し疑問に思いながら「松田くんたちは」と尋ねた。萩原――と言わなかったのは、恥ずかしさが勝ったせいだ。

「もうすぐ来る。ちょっと荷物が纏まらないだけだ」
「……嫌な予感がする。私だけ?」
「はは、大丈夫だ。しっかり叱っておいたから」

 伊達が大らかに笑いながら告げた。
 ――伊達は、同期生で合っているよな。決して、上官とかではなかったはずだ。降谷は自業自得だよと、私の目の前でコーヒーを注文しながら澄まして見せた。松田と萩原は分かるとして、諸伏もそうなのだろうか。とても、彼らのように規則違反をするタイプには見えなかったけれども。
 以前会った時は降谷と楽しそうに喋っていたように思ったので、「諸伏くんも?」と彼に尋ねかける。降谷は長めのブロンドに隠れた眉をピンっと吊り上げて苛立ちを露わにした。

「ヒロは二人の手伝い。別に良いって言ったのに……」
「ああ、なるほど……」
「まあ、なんだかんだ言って皆で楽しんだじゃないか」
「何を?」

 きょとんと尋ねると、伊達はまた笑顔を少し深くした。降谷がすぐに口を開いたけれど、伊達の大きな手ががばっとその口元を塞いだ。大きく太い指に、降谷はもがもがと足掻く。――そんなに、まずいものなのだろうか。警察を目指しているのだから、まさか犯罪のようなものではないと思いたい。とはいえ、松田の家にあった工具箱やらを思い返すと、何ともコメントし難かった。
 うん、帰ってくるのならそれで良いことにしよう。
 なんだか聞くのも怖く思えてきて、私は強張った笑顔で「やっぱり大丈夫」と首を横に振った。その時の伊達の表情が、ややホっとしたように窺えて、答えを聞くのがますます恐ろしく思える。

「お、それ懐かしいな」
「伊達さんも知ってるんですね」
「ああ――あれだろ。ベーシストが脱退するときにライブでベース真っ二つにへし折ったっていう……」

 降谷まで、私の持っていたCDを眺めてそう言うではないか。案外、私が興味がなかっただけで有名なバンドなのかもしれない。ベーシストの件には苦笑を浮かべざるを得なかったけれど、なんだか彼らも同じ音楽を聴いていると思うと、親近感が湧く。
 
 背の高いグラスに注がれたアイスコーヒーが二つ運ばれてきて、彼らもまた喉を潤しながら、少しだけ楽曲の話を交わした。なんでも、諸伏がそのバンドのファンらしく、降谷が知っているのはその影響らしい。

「えぇ、私は脱退前のほうが好きなんだよね」
「そうか?」
「うーん、俺は後のが好きだな。一体感があって」

 伊達も降谷も、ベースが変わったあとのほうが楽曲が好みなのだそうで、私は意外だと口を開いた。そんな話をしていたら、ようやくのこと入り口のベルが新しい音を鳴らす。三人分の足音に、私たちは揃って顔を上げる。


「う、わっ」


 顔を上げた瞬間に、目の前に暗い影が落ちて、私は声を零した。
 次の瞬間、ボスっと重たい体が凭れかかっていることを理解する。ふわりと、覚えのある香りが鼻を擽り、私の頬を自然と持ち上げた。萩原の香りの後に、続いてなんだか焦げ臭いような匂いがした。その匂いが何かは分からなかったけれど、言及する前に大きな腕が背中に回る。

「萩原くん、重たいって」
「無理無理。離れられない」
「や、普通に他の人いるし、私今日電車だし……」

 車だったら良いってことでもないけれど。苦笑しながら、とんとんと大きく広い背中をなるべく優しい力で叩いた。子どもを寝かしつける親の気分だ。
 いつもだったら人前で抱き着いてきたりだとか、聞き分けのないようなことはしないのだけど――って、この言い草だと本当に子どもみたいだ。自分の心の声にそっと含み笑いをしてから、疲れたのだろうな、と思った。

 一応、私が席を立ったらズリズリ、と肩口に凭れながら動いた。歩く意思はあるらしい。このままでいてもどうしようもないので、一向に顔を見せない男を持ち帰ることにする。少し多めにお金を置いて、「ごめん」と萩原を引きずって店を出た。
 諸伏と伊達は至極微笑ましそうに見てくれたのに、降谷と松田がゲッソリとこちらを睨みつけていたのが心に残っている。私が見送るほうの立場でも、ひどく居た堪れないと思う。

 店から出ると、彼はもぞもぞと私の横に周った。そこまで周囲が見えているのならば、普通に歩いてほしい所なのだが、どれだけ引っぺがそうとしても、その時ばかりはビクともしなかった。
 うーん、と悩みながら改札の前まで歩いて、私はその大きな背を再び突く。

「ねえ、帰ろうよ」
「んー……」

 ごにょ、と発音の不明瞭な音が響く。
 彼の髪が、汗ばんだ私の首に張り付いた。陽が落ちているとは言え、まだ気温も高い。私も気を遣ってはいたが仕事終わりで、そこそこ汗臭いはずだ。申し訳なく思えてきてしまって、なんとか彼をその場から剥がそうとした。

「研ちゃんの顔見たい」

 つんつん、とその後頭部を突きながら告げると、萩原はのそのそと顔を上げた。彼は、暑がりだ。よく汗を掻くし、人より赤ら顔になりやすい。例に漏れず赤くなった額や頬に、黒髪が数本張り付いていた。

 暑かっただろうに。張り付いた髪を指先で解き、耳に掛けてやった。指先が冷たかったのだろうか、萩原が小さく「きもちい」と零したのが、妙に色っぽかった。
 
「あ、まぁたそれ聴いてんの」

 ようやく隣を歩き始めた萩原が、私の鞄から覗いたCDを見て嬉しそうに笑う。だって好きなんだもの。萩原の好きなものを、一端でも共有できているような気がして――。という言葉は、そっと胸の奥底に仕舞いこんだ。