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 私は手帳に記された、盆休みの期間をそっと視線でなぞった。もう七月も下旬、八月に入れば、楽しみにしていた旅行がある。警察学校では、今が夏季休暇前の試験期間らしく、今週は忙しく寮に引きこもるそうだ。私はその休日を利用して、旅行で入用になるものを買いに駅前のショッピングモールに来ていた。
 海に行くのなんて、数年来だ。前に行ったのは大学生のころだったから、折角なら大人っぽい水着なんて買ってみようかと店を見て回った。萩原のことを考えながら買い物をするのは思いのほか心が躍り、ボーナスが出るとは言え、気づけば手荷物がどっさりと増えていた。
 服に、パジャマ、水着、アクセサリー、下着――。いくらなんでも浮かれすぎではと気づいた時には、両手にいくつもの紙袋を抱えていた。夏のバーゲンセールを一人で爆買いだなんて、間違っても同僚には見られたくない。

 一通りのものを買い終えて、私はひとまず休憩をしようとモール内のカフェに向かった。ちょうどカフェタイムだったこともあり、数組の列があったが、まあ良いだろう。その後ろに並んで暫く――目の前にいる女性も、どうやら一人だということに気が付いた。しかも、私と同じように紙袋を両手にどっさりと下げている。
 良かった、どうやら私だけではないようだ――。その後ろ姿に内心安堵の息を零していた時だ。私の持っていた紙袋と、目の前の女性の紙袋がコツンとぶつかった。それに気づいたようで、女性は艶やかな髪の毛を揺らして振り向いた。

「ごめんなさい、ちょっと買いすぎちゃって……」

 と、私のほうを振り向いた女性が苦く眉を歪めた。「ああ、いえ、私こそ」、私は首を振る。女性も私の荷物に気が付いたようで、こちらを振り返ると視線を合わせて苦笑いを浮かべた。
 私はつい、彼女の顔をジっと見つめてしまった。
 それは別にぶつかったことが――とかそういうわけではなくて、どこか既視感を覚えたからだ。気のせいだろうか。確かに美人ではあったけれど、別段特徴のある風貌ではない。ただ、そのふっと綻んだ表情の明朗さは私の目を奪った。
 女性は明るさの中にどこか大人びた雰囲気をもった瞳を、私の顔に向けていた。あまり見つめすぎても失礼だったかもしれない。変な人だと思われる前にやめよう。

「すみませ」

 ん――という言葉に被さるように、目の前の女性は明るく微笑んだ。そして、何かを思い立ったように小さなハンドバックの中身を漁る。がさがさと手に下げた荷物が擦れて邪魔そうだった。
 そして、宝物を取り出すように何かを手に取ると、私のほうに向けてそれを差し出した。少し小さめの、ベージュの皮財布。私のものとうり二つの――。

「あっ」

 そうだ、思い出した。
 確か、フサエブランドで財布を買おうとしたときに、ちょうど最後の現品だったのだ。私が今使っているのがブラックで、ベージュはもう一人の女性に――。どこか見覚えがあるとは思ったのだ。私が声を零すと、女性も嬉しそうに微笑む。

「あの時はありがとうございました。とっても気に入っているんです」
「いえいえ。別に譲ったとかそういうわけじゃないので……」
「今日はおひとりですか?」

 彼女の誘いで、私たちは一緒にカフェに入ることにした。二人合わせると荷物は中々の量で、申し訳なく思いながらソファ席の隅に寄せる。

 女性の口調は穏やかで、しかしやはりその笑顔は明るく、長く手入れの行き届いた髪を掛ける仕草は大人びて見えた。何重にも別の人格がかぶさっているように、角度が違うと色の変わる宝石のように、彼女は幾重の印象を持っていた。
 聞くところ大学に入学したばかりらしく、やっぱりそれにしては小洒落ていて、大人びた雰囲気がある。かと思えば世間話も好きらしく、ニコニコと笑いながら私の買ったものについて尋ねてきたりもした。
 彼女とは、好きな服や下着のブランドが一緒で、しばらくその話で盛り上がった。こうして女の子と私服の話をするのは久々で、なんだか学生に戻った気持ちだ。

「ずいぶん大人っぽいもの着るのね。私が子どもっぽいのかな」
「いえいえ! 私がそういう人に憧れてるんです。なんだか、着るだけで良い女っぽくて……。なんて、ちょっと安直かしら」
「あはは、でもちょっと分かるかも」

 ふふ、と悪戯っぽく笑った女性に、私も笑い返した。
 彼女と話す時間はあっという間で、五分が一時間にも感じたし、一時間を五分にも感じた。腕時計を見遣った時に、彼女が「それ、すごくセンス良い」と褒めてくれたのがひたすらに嬉しく、私ははにかんだ。

 ちょうど一時間ほどが経ち、カフェの混雑具合が増してきた。外にできた列を見て、そろそろ席を立とうと思いたった。
 せっかく、偶然に出会ったのだ。話した印象も良くて、連絡先くらい交換できないだろうかと思った。別に何の気なく、私は彼女の名前を尋ねる。

「……えっと」

 一瞬の戸惑い。末広がりの二重は、彼女のやや吊った大きな瞳を強調させる。感情豊かな眉が、目に見えて困惑に歪んだ。
 私はそれが意外で、少しだけショックだった。だって、尋ねたのは名前だ。大抵の人が、最も言い慣れた単語といっても良いだろう。言い渋るということは、何かしら拒否をしたい理由があったはずだ。
 しかし、迷惑になってはいけないと思って、私は「気にしないで」と首を横に振った。女性は、憂い気に視線を落とし、どこか縋るように私の袖をつかんだ。
「ちがうの」
 唇を巻き込んで言い淀む姿に、少しだけ自分の姿が重なった。似ている――というのは、さすがに自惚れだ。だけど、なんだか放ってはおけなかった。放っておいたら、自分の心さえそのままに置き去りにしてしまうような気がして。

「待とうか?」

 私は、ふとそう告げた。彼女の焦ったような姿が、どこか心の準備を要しているふうに見えた。完全に私の主観で、もしかしたら違うのかもしれない。けれど、女性は静かに一つ頷いた。
 カフェの楽し気な会話が飛び交う中で、彼女は何かを考え込むように、瞳を揺らしながら幾度か瞬く。長い睫毛がその下瞼に影を落とした。瑞々しいコーラルレッドのルージュを伸ばすように、軽く唇を噤み、五分ほど。
 沈黙を破った女性は、柔く微笑んだ。先ほどまで明るく見えた視線が、泣いているように見えたのは、ただの思い込みだろう。


「明美――……。美しい明けで、明美です」


 微笑と共に告げられた名前が、私の心にゆったりと染みていった。「明美、さん」とたどたどしく名前を呼ぶと、彼女は先ほどまでの雰囲気を吹き飛ばすようにカラカラと明るく声を上げた。

「やだ、さんなんて」
「なら、明美ちゃん?」
「はい。ふふ、なんだか嬉しい」

 持ち上がった頬に赤みが差した。彼女の笑顔に、私も名乗ると、明美は「みずきさん」と私を呼んだ。

「さん、じゃなくて良いよ」
「じゃあ、みずきちゃん」
「確かに、そう呼ばれるとちょっと照れくさいね」

 社会人になってからはそう呼ばれることも少なくて、私はむずむずとした感覚に頬を掻いた。連絡先こそ交換はしなかったが、これが最後だとも思えなかった。だって、最近は偶然が重なることばかりだから、きっと彼女ともまた会うのではと確信めいたものがあったのだ。

 ――美しい、明けかあ。

 なんだかロマンチックな響きだ。私は沈みかけの夕焼けを見送りながら、いつもより少しだけ清々しい気持ちで帰り道を歩いた。からりと乾いた風が頬を撫でていく。軽く襟元を扇ぎながら、今度萩原が帰ってきたら素麺にしようと考えていた。