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「すげ、マジで砂が鳴いてる」

 じりじりと、蝉の声が鼓膜を揺らす。
 本当は一日目に訪れる予定ではなかったのだが、ホテルに向かう途中で見えた海にどうしても我慢できないまま、私たちは見かけたままの海に足を踏み入れていた。白いTシャツに、ハーフアップにした黒い艶やかな髪が青い空によく映える。スポーツサンダルで、砂を楽しそうに踏みながら萩原は無邪気に笑った。

 待ちに待った旅行の一日目だ。私の心も大きく高鳴っていた。新しく買った白いロング丈のTシャツも、朝から慣れないアレンジに苦戦しながらセンターに分けた前髪も、萩原は出会った時からニコニコと「似合っている」「可愛い」と言ってくれた。もちろん、それが嬉しくない――なんてわけがない。すごく嬉しい。意図的ではなかったが、やや服装が被ったことさえ、今日においては恥ずかしいとも思わなかった。

「ほら、みずきさん。こっちきてみて」

 大きな手が私を手招いた。私はその手を取って、黒のフラットサンダルで熱された砂を踏みしめた。擦るように体重を掛けると、きゅきゅ、と形容しがたい音が鳴った。ぴかぴかの机の上を擦ったみたいだ。
「わ、本当だ」
 私も自然とそれに笑ってしまった。その音を出すのが楽しいようで、萩原はキュキュ、キュキュ、と何度も砂を鳴らしながら歩いていた。手を繋ぎながら、いつもの歩調とは違う萩原の歩みが可笑しくて、また笑う。なんだか、音の鳴る靴を履いた子どもみたいで――。というのは、さすがに口を噤んだけれど。

 きちんと水着も持ってきたけど、ここは海水浴場ではないから、それはまた明日にまわすとしよう。真昼間の日差しは、ガラスの破片を散りばめたみたいに海に落ちて光っている。波が動くたびに、その光もキラキラ、キラキラ、と五月蠅く光った。
「こういうのって、映画とかだと夕暮れとか朝に来るじゃない?」
「確かに。でも、昼間も綺麗だよ。ちっと暑いのは難点だけど」
「あは、本当に暑いの弱いよね。もう汗べっしょり」
 するっと伝い落ちていくこめかみの汗を、手の甲で軽く拭った。萩原は気恥ずかしそうに反対側の頬を掻く。冬には、私が寒がっているのをジャケット一枚で笑うような人だったけれど、私は案外夏の暑さは嫌いじゃなかった。

 潮の香りがする。
 浜辺はやっぱり風が強くて、萩原の髪も私と同じように風に踊った。強い日差しのせいで、靡いた髪は彼の白いシャツや、肌に暗く強く影を落としていく。そのコントラストの強さが、彼の顔立ちの華やかさを強調した。

「――……なに見てる?」

 萩原が、潮風を受けながら、視線だけをこちらに流した。日差しを浴びて、普段漆黒に見える瞳は、やや茶がかって見える。多分、彼の中では確信めいたものがあったのだろう。瞳の奥が、期待にきらりと光った気がした。波の反射と相まって、それが眩しい。腕時計は、今日つけてくるには少しフォーマルで、服装には合っていない。それは私も一緒だった。
 私はドキドキと、初恋みたいに鳴る鼓動を隠せないまま、ちょっとだけ口籠る。それから、意地を張って「海」と言った。

「あっははは、嘘だぁ」
「分かんないでしょ。海見てるかもしれないよ」
「俺とこーんなに目が合ってんのに?」

 ジっと私の目を覗き込むように、垂れた目が瞬いた。視線を逸らす。その逸らした視線の先に、大きな手があった。見た目の華やかさとは少しだけ印象が異なる。ごつごつとした、無骨な形。彼の頑固さを表したような手は、今日は汗ばんでいる。

「俺はみずきさんのこと見てたよ。綺麗だなあ、って思ってた」

 そんなの、私だってそうだけど。
 萩原の言葉は自由で彩られている。その言葉の一音一音が、私の心の奥を擽っていく。どんどん、彼のことを好きだと感じる。

 どうしたら、彼とずっと一緒にいられるのだろうか。私は彼を引き留めておくために、何ができるのだろうか。好きになればなるほど、それが分からなくて怖かった。いつかこの手が離れてしまったら、その素直な言葉が私のことを拒絶したら、どんなに恐ろしいのだろうか。

 私はどんな表情をしていたのだろうか。少なくとも、晴れやかではなかったのだろう。萩原の表情が、少しだけ曇った。心配そうに、私の手を汗ばんだままの手が包んだ。
「ごめん、何か辛かった?」
「ううん、違う。ただ……好きだなあって思ってただけ」
 そう言えば、萩原の口元が緩み、軽く目元に唇が触れる。私もその手を引いて、きゅ、きゅ、と軋む砂の上を歩いた。ホテルに着いたら、きっとこの翳る気持ちもなくなることだろう。


 親に怨むことがあるとするならば、私に人からの愛され方を伝えてくれなかったことだ。
 どんなふうに愛したら、どんな愛し方が返るのか、教えてくれなかったことだと思う。
 どれだけの時間を掛けて、どれだけの気持ちを注いでも、彼らがそれに振り返ることはない。だとしたら、萩原をこの手につなぎとめておく方法など、もしかしたらないのだろうか。一生、離れないでと心の奥で願いながら、私は彼の手を握るのだろうか。

 努力は人を裏切らない――。

 と、私の母親が言ったことだった。だから叶えたいことには精いっぱいに時間を掛けなさいと。間違っていなかったとは思う。勉強も運動も、あらゆることにおいて、掛けた時間は私を裏切ることはない。
 ただ一つ。私を一人にしないでほしいという、単純な願いだけを除いては。だけど、今回こそは、今回だけは――。
 彼のためならどんなことでもしたい。いつでも好物を作るし、彼の好きだということは私も好きになろう。どれだけでも、どんなことでも。

 
 その想いが、私の心を重たくした。
 今が楽しければ、彼のことが好きであれば、その想いがますます鈍くなっていくのを感じていた。けれど、萩原の前では気づかないようにしなければ。萩原と同じ――同じ人間にならなければ。

「――みずきさん!」

 きょとんと目を瞬いた。ホテルにチェックインしたあと、少し落ちた日差しを見ながらキャリーの中の荷物を整理していた。明日使う水着を鞄に入れ替えながら、首を傾ぐ。私が考え事をしていたからだろうか。しかし、それにしては萩原の顔は喜色に満ちているように思った。

「どうかした?」
「外、メシ食いに行こ」
「そんな時間? ――本当だ」

 腕時計を見遣れば、もう五時を過ぎる。確かに出発も早くはなかったし、遠出であったし――。にしても、もう日暮れか。夏は陽が落ちるのが遅いから、つい調子が狂ってしまう。

「……なんか、企んでない?」

 私は少し笑いを零しながら尋ねてみた。萩原のそのニヤニヤとした顔つきは、たいてい何か隠し事があるときだ。しかも、プラス方面の。萩原は図星をつかれたように、ますますその口角を緩めていった。
「当ててみな」
 得意げにいう物だから、私も真剣に唸る。
 たとえば、どこか予約している店が特別な場所だとか。いや、その得意そうな顔からは、何か悪だくみのような香りを感じる。
「うーん……サプライズっぽいもの?」
「そりゃあ、まあ」
 少し考え込む。しかし、どうにも考えが浮かばず、チラリと萩原のほうを見遣った。彼は私と目が合うと、パチンと手慣れた風に片目を閉じる。違う、そういうことじゃあないんだ。
「えぇ、教えてくれないの?」
「だって、言ったらつまらないっしょ」
「ここまで言ったのに!」
「ほら、はやく」
 手招いた手に、私は慌てて駆け寄った。悪戯っぽく笑う萩原の表情を可愛く感じながら見上げると、今度は唇にキスが降った。つい「えっ」と声を上げてしまったら、萩原は満足そうに「可愛かったから」と答えた。
 君の方が――。私はキスをされた唇が、少しニヤけてしまうのを抑え込んでいた。