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 夕食には、ホテルの近くの中華料理屋で炒飯と小籠包を食べた。地元の店らしい古びた内装だったけれど、萩原が知り合いから聞いたというだけあって味はかなりのものだ。お腹も膨れて、しかし頭の中では少しだけ引っ掛かりがあった。
 ホテルを出る時の、萩原のあの態度――。絶対何かあるのだろうとは思うのだけど、彼からその仕草はない。一体何だったのだろう、やや疑い深くなりながら、店を出た。なんとなく歩いていくと、ホテルの前にある浜辺に着く。夜の海は、昼の姿とは違って少し不気味だ。音も光も全て吸い込んでしまったような暗闇が、ずっと遠くまで続いている。
 
 それが少し怖くて、手を繋いでいた彼の手のひらを握る力が自然と強くなった。萩原は何も言わず、その手をぎゅっと握り返す。少し歩いた場所に、防波堤があった。近くで、萩原は何やら手に持っていた鞄から取り出し始めた。

「……花火!」
「うん。そう、まあまあ、座りなさいな」

 おばあちゃんみたいな口調で、彼はゆったりとコンクリートの地面に腰を下ろす。波の音がした。たぶん、足元にはその波がぶつかっているのだろうと予想できる――けれど、見えないからそこはただの暗闇だった。落ちたら、どこまでも沈んでいきそうだ。
 とんとん、と彼の隣に促されて、ゆっくり腰を下ろす。靴が脱げそう――たぶん、脱げないけど。そう思うくらいに、真下に何があるか見えなかったのだ。

 萩原が手にしていた花火は、よくある手持ちパックのようなものではなくて、袋に数本だけ入った細い手持ち花火だった。形状からいうと、たぶん線香花火だと思う。萩原が取り出したぼろぼろのライターを手渡す。いつも彼が煙草を吸う時に使っているのと、同じものだ。

 線香花火は好き。でも、ちょっと意外だ。手元が見えなくてちょっと怖かった。見かねたのか、彼がライターを持って、火を灯してくれる。花火の先を、そっとその火へと近づけた。ちりちりと焦げ付いた先が、光の玉を持っていく。

 ぱちん

 眩い光が弾けた。――その光に、私は目を丸くした。暗闇のなかで、唯一花火の先だけがほのかな灯りを持っている。私のよく知る線香花火と、同じようで少し違う。その熱が弾ける色は、青い光を灯していた。

「なんで……」

 波の音のほうへ落ちていく花火の灯りを、じっと見守る。綺麗だった。オレンジの灯りも綺麗だけれど、その青い閃光が、萩原によく似合っていたから。

「みずきさんに似合いそうだったから」
「私に?」
「前言ったろ。凛とした色が似合うんだよ、みずきさんってさ」
 
 ――綺麗だろ。と、いつもの間延びした声が笑った。
 線香花火を見つめる視界が、ぼんやりと滲んだ。彼がその台詞を覚えてくれてたことが、嬉しかった。私だけじゃなかった。その台詞に一喜一憂して、浮かれてたのは、決して私だけではなかったのだ。
 声が震えてしまう気がして、私はごくりと大きく息を呑みこんでから、笑った。

「でも、こんなの売ってるんだね。知らなかった、すごく綺麗」
「いんや、作ったの」
「そっか、作った――作った!?」

 作ったって言うと、花火を? 私が目を白黒とさせていたら、彼は深く頷いた。
「だって、青の線香花火なんて売ってねえし」
 さも当然のように、萩原は自らの手に持った線香花火にも火を灯して、ぱちぱちと揺らぐ火を楽しみ始めた。

 その瞬間、海辺で感じていた不安の種が、ぐらぐらと揺らいだ気がする。暗闇のなか、少し涼やかな潮風を受けながら、頬がぐつぐつと煮えていく。――もしかして、萩原ってかなり私のことが好きなのか。瞬間的に、自惚れた想いが浮かんだ。

 だって、普通、作るか。花火。
 いくら売ってないからって、似合うからって理由で――作るか。
 私は声を失って、あとは落ちるのを待つだけになった、小さな小さな筋を放つ先端を見つめた。ていうか、火薬の製造ってそもそも法律で禁止なんじゃなかったっけ。そこまで考えて、先日居残りを命じられていた萩原と松田と諸伏のことを思い返す。

「ふ、ふふ……あははは!!」

 ずっと花火の研究をしていたっていうの。だから、あんなに焦げ臭かった――?
 可笑しかった。可笑しくて可笑しくて、腹を抱えて笑った。夜の海は、紡ぐ声もすべてその闇の中に溶かしてしまう。笑った拍子に、ぽとん、と先端の炎が、声といっしょに落ちていく。

「……あは」

 ぼろ、熱が瞳の奥から零れ出る。
 萩原はよくぞ暗闇の中で、というほど、私の様子にすぐ気づいた。自分の持っていた花火なぞ放って、私の頬に慌てて手を沿わせた。溢れた涙が止まらなかった。ぼろ、ぼろ、と荒いコンクリートを濡らす。夜のコンクリートは、少しばかり冷えていた。

「ごっ、ごめん! やっぱ重かった!? 陣平ちゃんには止められたんだけどさあ!」
「と、止められたの? ふ、やめて、これ以上笑わせないで……」
「……みずきさん、笑ってんの、泣いてんの?」

 不思議そうに、彼が首を傾げたのが暗闇でも分かった。私の頬を零れ落ちた涙を、大きな親指がすっと拭っていく。相変わらず、温かい指先だった。自分でも、感情がよく分からなかった。安心と、喜びと――でも、マイナスの感情ではなかったような気がする。

「……もう一本、貰っても良い?」

 私が尋ねると、彼は袋からもう一本花火を渡してくれた。
 何を混ぜたら青色になるんだろうか。今度、彼に聞いてみよう。そう思いながら、今はただ静かな火のゆくえを見守った。本当に、綺麗だ。萩原によく似合う、静かに燃える青い光。
 それを見ていたら、止まりかけた涙がまた零れていった。

「きれい」

 そう呟けば、萩原が横で笑った――気がする。顔を見ていなかったし、声もしなかったけど、そんな雰囲気があった。
「もっとド派手なサプライズのが良かった?」
「ううん、私、これで良い」
 その青い炎を見ているだけで、不思議と暗闇が恐ろしくなかった。ぱたぱたと、雲の上のような気分で足先を揺らす。今度の玉はひどく歪で、暫く見守っていると先ほどよりも手早く落ちかけていた。最後の一筋を、大きく光らせる。

「これが、良いの」

 口元を緩ませながら言うと、萩原は優しく「うん」と答えてくれた。
「それ、前も言ってたね」
「そうだっけ?」
「時計あげたときも同じこと言ってたよ」
 そうだっただろうか。自覚はなかった。萩原がそういうのならば、そうなのかもしれないとは思う。

「だって、研ちゃんが良いんだよ」

 ふふ、と笑いながら告げたら、萩原は甘えたように肩に凭れかかってきた。ほんのりと、先ほどまで彼が食べていた麻婆豆腐のつんと辛い香りがした。彼は静かに呼吸をする。潮に触れた髪は、いつもより少し固かった。

「俺もだよ」

 いつだか――警察学校に行くのだと語った時と同じ声色。静かで、しかしどこか伸びやかな声。いつもの彼も彼であることには間違いないのだが、その声は――いつもよりも僅かに彼の心の底に近い気がする。

「俺も、みずきさんが良いんだ」

 穏やかな口調が、そう語る。歪な炎が落ちて、それと同時に萩原は私にキスをしていた。真っ暗だ。もう、彼の黒い髪と外の見分けがつかないかもしれない。それでも良いと――そう思った。このまま彼と一緒に、一生ここにいられればと、思ってしまった。

 厚い唇がふにりと触れる。柔く食んで、それからもう一度。薄っすらと瞳を開けると、彼の太い眉が僅かに顰められているのが、闇に慣れた瞳で分かった。