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「う〜ん……」

 私は更衣室の鏡を見ながら、くるりと一周した。この日のために買った、黒色のビキニだ。なるべく大人っぽいデザインをと思ったのでそれほど小さい面積のものではないし、他の着替えている人の様子を見ても別に浮いてはいないと思う。しかし、何せ水着と名のつくものを着るのは久しぶりだから――。試着のときは、店員にあれやこれやと褒められながら買ったけれど、やっぱり歳の割に無理をしたのではと思ってしまう。
 よく見たら、腹の肉もまずい気がする。萩原の体は引き締まっているし、隣に並んだら恥ずかしくはないだろうか。
そうこう考えている間に、着替えが終わってから十分ほど経ってしまった。さすがに待たせすぎるのも申し訳なくて、羽織って来たパーカーと共に更衣室を出た。

 私は、更衣室を出た瞬間に立ち止まって目を剥くことになる。

 萩原が見つからなかったわけではない。寧ろ、彼の存在は私の視界の中で一番目立つ場所に存在した。条件が悪かったかもしれない。一つ、私の着替えを待っていてくれたことによって、ここが女子更衣室の目の前だったこと。一つ、今が夏の海水浴シーズンであること。
「にしても、これは……」
 もはや嫉妬の心さえ生まれず、私は彼に同情した。萩原の待つ傍らには、女性が数グループ――その遠巻きにも数グループ。かろうじて彼の背丈があるおかげで姿は認識できるが、ほぼ女性の波にのまれるようにして、彼は首を振りながら苦笑いしていた。
 どうしたものか、と立ちすくんでいると、萩原がはっとしたようにこちらを捉える。そしてようやく救いを見つけたと言わんがばかりに、「みずきさん!」と大声を出した。女性陣の視線が、ぐるっとこちらを向く。
 ビクリと肩を大きく揺らしながら、私はさっとパーカーを羽織って彼に手を振り返した。

「ええ、彼女いんじゃん」
「だからさっきから言ってるでしょうに」

 散り散りになる女性陣に、萩原は苦笑いを深くしてこちらに歩み寄った。軽く首元で一つにまとめた髪から、太い首筋が伸びている。今日は前髪も一緒に後ろに流していた。
 ――あれ、萩原くん、こんなに筋肉あったっけ。
 さすが警察学校というのか、前からヒョロヒョロとした体躯でもなかったけれど、厚みが増したように思う。そりゃあ、見たことがある私でもドキリとしてしまうほどだ。確かに顔つきも華やかなほうだし、女性が寄るのは仕方ない――のだろうか。
「みずきさーん、顔怖いって」
 とんとん、と肩を叩かれる。
 私が慌てて振り向くと、彼は両頬に人差し指を添えて「笑って笑って」とほほ笑んだ。いつもの萩原の表情だ。額から零れた短めの前髪を撫でつけてやると、彼は驚いたように片目を瞑り、それから照れくさく首筋を掻いた。

「行きますか」

 そのはにかみを誤魔化すように、萩原が大きな手を差し出した。私もそれに頷いて、ひとまずは国内とは思えない青い海を楽しむことにする。

 どうやら着替えにてこずっているうちに、浮き輪もレンタルしておいてくれたようで、明らかにファミリー向けではという子どもっぽいアヒル柄の浮き輪を持って海につま先をつけた。柔らかな砂が沈む。海水の温度はそれほど低くはなかったけれど、それでもやっぱり冷たいと思った。
 ちらちらと輝く波間を割くように足を進めていくと、水深も深くなっていった。底まで見える透き通った海に、つま先を眺めながら歩いていると、手を繋いでいた萩原が急に私の手を引いた。

「――えっ」

 中々に強い力で引かれたので、バランスが崩れた。ちらりと垣間見えた萩原の垂れ目は、ほくそ笑んでいたように思う。可愛い顔だなあ――と思うと同時に、私は海水に浸かっていた。飛沫が、ぱしゃっと顔に掛かる。
 それでも転ばなかったのは、目の前で萩原が受け止めてくれたからだ。暫く高鳴った鼓動を落ち着けてから「萩原くん!」と少しばかり声を荒げて見上げれば、彼はニコニコと満足そうに笑っていた。
 あまりにご満悦だったので、少々怒る気が削げてしまったことは、隠せなかったと思う。
「ほい」
 アヒル柄の浮き輪が差し出される。一応大人用のサイズにはなっていたので、差し出されるままに被ると、その浮き輪を押すようにもう少し深いところまで歩いていく。私の足先が、少しずつ地面から離れているのが分かった。

「こういうのはバッシャーンって行くのが楽しいの」
「ふうん、バッシャーンかあ……」

 子どもが引率されるみたいに沖のほうまで移動されながら、私はちらっと横にいる彼を見遣った。「バッシャーンね」ともう一度復唱してから、彼の反対側でひっそりと手のひらに水を溜め、萩原の顔に向けて大きく跳ね上げた。

「ぶっ」

 艶やかな黒髪に、塩水がばしゃっと被さった。
 臆する様子はなかったけれど、驚いたみたいで、片手で軽く顔を拭ってから驚いてこちらを見つめていた。
「ははーあ、研二くんに喧嘩売るたあ良い度胸だぜ」
 にやっと大きな口元が弧を描く。浮き輪の端を持って、コーヒーカップのようにぐるっと一周させられた。足が自然と水の中を泳ぐ。
「それ目回るって!」
「ふは、だってみずきさんが先に手出したでしょ」
「そういうところガラ悪い……うわっ」
 両手を組んだ水鉄砲が、鋭くこちらに飛んできた。中々に精度のある水鉄砲だ。そういうところまで器用なんだから。首元に掛かった水を払って、それから二人で暫くじゃれ合うように水を掛け合っていた。お腹がすいて上がろうかと言った時には、すでに二人とも頭からびしょびしょで、私たちはそれが可笑しく浜辺で歩いている間ずっと笑っていたと思う。


「すっごい、こんなになったの初めてかも」
「マジ? ガキのときとかやんなかった?」
「記憶ないなあ」

 パーカーの水をぎゅうと絞りながら、サンダルの狭間に入り込む細かい砂を軽く払った。本当は記憶ない――というより、昔は海に来ることもなかっただけだけども。さすが男というか、萩原の水着は暫く歩くともう渇きを取り戻したようで、後ろに水を滴らせているのは私だけだった。
 特にパーカーは、もともと海水浴用のものでもないので、たぶんしばらくは乾かないだろう。肌に張り付く感覚が鬱陶しくて、腕を抜こうとした。その時にはもう楽しさのほうが勝っていて、だいぶ羞恥心が抜けていたのだ。
 しかし、その直前に萩原が私の手首をつかんだ。

「待って、もしかして脱ごうとしてんの?」
「あ、うん……。ちょっと邪魔で」
「やめようぜ、もうさあ〜……」

 呆れたように私のほうを見てくる萩原に、「えぇ」と小さく声を零した。ちょっとだけ、嬉しかった。明らかにその表情は拗ねていて、まあ、その――。いくら恋愛方面において未熟だとしても、私でも分かるほどの嫉妬と心配が表に浮かんでいたからだ。それをこちらから言うのも恥ずかしかった。萩原は何と言おうかと、しばらく悩んだように私の手を掴んだままだ。

「……分かった。脱がないよ」
「そうして。ま、そのままでもケッコーエロいけど……」

 ぶつくさと言いながら、彼はぎゅうと私の手を強く握った。濡れた指先は、いつもと違って冷たく感じる。
 しいていうなら、私だけでなく自分の体も隠してほしいなあ。ちらちらと刺さる女性たちの視線を感じながら、そのたくましい体を見上げた。来年から、夏は上着が必須であると覚えておこう。
 一つにくくった髪の束から、ぽつんと冷たい水が落ちていく。
「……ねえ、研ちゃん」
 私は繋いだ手を引いて、彼を呼んだ。なんだか、勿体ないと思った。この時間を終わらせたくないと思った。

「……もっかい泳ぎにいきたい」

 小さい子が駄々をこねるみたいに呟いた。萩原は何か悩むこともなく、ただ笑って「良いぜ」と私の手を引く。嬉しそうに歩く足取りは、私からしたら少しだけ大きな一歩だった。