49
朝、起きると頭が重たく痛んだ。
そういえば昨晩は冷房を切り忘れてしまったなあと考えながら体を起こす。大きく欠伸をして、フローリングを踏みしめたとき、大きく体が揺らめく。――あ、まずいやつだ。そう自覚したのは、そのままベッドの上に体が倒れこんでからだった。
「風邪ですねえ」
会社に連絡を入れてから、医者は至極真っ当にそう告げた。夏風邪はなんとやらというが、実に情けない。今日のカバーに入ってくれた同僚へメールを送って、大人しく家で寝込むことにした。
幸い今日は金曜日だ。萩原が帰ってくるだろうが、どうしようか。体が資本だろうし、何も知らずにうつしても悪いので、ひとまず連絡を入れておいた。風邪なんて、久しぶりだ。旅行の時ビチョビチョに濡れたまま冷房に当たり続けたせいで、それから喉の奥がイガイガするとは思っていたけれど。
――風邪ってこんなにしんどいものだっけ……。
ぼんやりと見慣れた天井を見上げた。
咳や鼻水くらいならよくあるが、発熱までしたのは本当に久しぶりだった。たぶん、中学のときが最後かもしれない。げほ、と咳き込んだ喉の奥は、何かがつっかえているようだ。
体は重たいが、思いのほか意識はしっかりとしていて、眠たくもない。けれど立つ気分にはなれなくて、ごろごろと寝返りを打った。サイドテーブルには、シンプルでクリアな写真フレーム。旅行から帰るその足で、記念にとフレームを買った。フレームの内側では、濡れた髪を掻き上げながら笑っている二人の写真が嵌っている。
髪の毛ぐしゃぐしゃだし、化粧だって落ち切っているし。
そう言い訳する私の手を引き寄せて、彼が撮った小さな写真だ。レンズを内側に向けて撮ったのに、じょうずに二人の姿が切り取れている。私は写真を眺めながら、ふと微笑んだ。いつか、こういうふうに風邪を引いた事さえ良い思い出になるのかもしれない。数年後、「萩原くんがびちゃびちゃにしたせいだ」と怒ってやろう。
そんなことを考えながら、私は静かに瞼を閉じたのだ。
◇
ひたり、ひたりとフローリングを歩く。
頭が重たくて、ふらふらとする足をなんとか壁に凭れながら支える。水がほしい。早く取りに行かなきゃ。家には誰もいないし、自分で何とかしないと。
このままじゃあ、また呆れられてしまう。
「これ以上困らせないでよ……」
頭を抱えた、手入れされた指先。私に似て吊り上がった目元が、きつく閉じられた。ふうー、と大きくため息がつかれて、けだるそうに母の口元が歪んだ。
それは嫌だ。手のかかる子だと諦めないで。笑っていてほしい。「あなたはいつも良い子ね」と微笑む、母の笑顔が好きだった。
だから、私が自分で何とかしないと、きっと捨てられてしまうから。
よく踏みなれた家の廊下。キッチンまで歩く最中で、ひゅうっと風が吹きすさんだ。今の体には寒くて、ぶるっと震える。その風が、扉を開けた。妙だ。こんな場所に扉なんてあったっけか。僅かに開いた扉が、誘いこむようにゆらゆらと前後に揺れた。
ぐっとドアノブに凭れかかる。その拍子に、体がドアを押し開けた。
そのまま床に倒れ込むと、誰かが歌を歌っていた。聞き覚えがないような、かといって懐かしいような。目の前に、花びらが一枚落ちた。桜の花びら。ひゅうっと吹く風が、もう一枚花びらを連れてきた。
「お、春一番」
歌が止まった。歌声と同じ声色が、穏やかにそう告げる。
私に言うわけでもなく、誰に言うわけでもなく、窓の外に呟いた。窓から差し込む木漏れ日に、彼の顔が見えなかった。
「――みずき?」
廊下から、母の声が聞こえる。私はハっとして、倒れ込んだ体を起き上がらせた。しまった、ベッドできちっと寝ていなかったから。心配させてしまったかなあ。迷惑を掛けてしまったかなあ。
「みずき、どこにいるの」
何度も名前を呼ばれた。早く行かなくちゃあ。
のそのそと部屋から出ていこうとしたら、窓辺にいた男が私を呼んだ。名前じゃなくて、「ねえ」と。しかし部屋には私と彼しかいなかったから、私に言ったはずだ。
私は緩慢に振り返る。男は相変わらず表情がよく見えなかったが、大きな口元だけ笑っているのは分かった。
「しんどそうだね。休んでくかい」
大きな手が、ちょいちょいと私を手招く。とても暖かそうな――どうしてだろう。触れたこともないのに、そう思った。
「みずき?」
母の声。私は男に首を振った。男は首を傾げた。ふわりと、彼の男にしては長いような髪が揺れる。風が吹いて、花びらがもう一枚舞い込んだ。
「見捨てられちゃうから。ちゃんとやらないと、好きって言ってもらえないから」
げほ、と咳き込みながら告げれば、男はもう一度、反対側に首を傾げる。不思議な人だ。妙に間延びした口調は、私の急いた時計の針をゆっくりと進めるように思った。
「そうかねえ」
至極不思議そうに、首を捻る。「そうなの」、あまりに自由そうな雰囲気が気に入らなかった。私とは真逆の場所にいるようで、羨ましいから、それが嫉妬に変わっていた。
「本当に、そうなのかなあ」
すっと、男が私の手を取る。驚いて、私は三歩ほと後ずさった。こちらに歩み寄る姿は見えなかった。どうして、と思う前に腕を柔く引かれた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
思った通りの温かな体温が、私の背に回る。とんとんと、何度か柔く触れた。今でも廊下から、母の声が聞こえる。「みずき、どこいったの」と、私を探している。けれど、足が動かなかった。あまりに暖かくて、その体温に包まれていたら、眠たくなった。春風が部屋の中を吹き通っていっても、寒くなかった。寧ろ、頬を撫ぜていく具合が心地良い。花びらは、ひらひらとその広い背中に落ちていく。
ぼろぼろと涙が零れ出た。寂しかったのだもの。ずっと、寂しかったのだもの。でも今更変えられない生き方を、何度も恨めしく思っているの。
「ごめんね、ごめん……」
萩原は、それを聞くと笑っていた。「何を謝ってんの」と、可笑しそうに、優しく、風と共に笑っていた。
◇
「いた……」
ゆっくり体を起こす。今は何時だろうか、眠り過ぎた気もするけれど、体は汗ばんでいた。どうやら寝る前に飲んだ薬は効いたみたいだ。体調が少し良くなるとお腹もすいてきて、大きく息をつきながら頭を押さえた。
喉が痛くて咳き込んだ拍子に、窓から湿っぽい風が吹き込むのが分かった。
――あれ、窓開けてたっけ。
さっきまで、冷房を弱くして効かせていたのだけど。体に張り付いた寝間着をぱたぱたと揺らしながら、部屋を見渡す。まだ外は明るかった。
――誰か来た……?
明らかに、私に覚えのないものがある。開いた窓に、ベッドの傍らに置かれたタオルと着替え。ベッドサイドに置かれたペットボトル。
今日風邪を引いたと連絡を入れたのは、同僚と上司、萩原くらいだ。その中でこの部屋に自由に行き来できるのは、一人しかいない。私はぱたぱたと寝室を出た。
「ごめん、研ちゃ……」
最後の一文字は、ごくりと鳴らした喉に飲み込まれていった。
キッチンに立っていた姿は、私が見間違えるわけのない立ち姿だったからだ。久しぶりに見ても変わらない、私とよく似た――違う、私がよく似た吊り目をしていた。彼女は綺麗な立ち姿のまま、顔だけをこちらに向けた。
「みずき、起きたのね」
少し痩せただろうか。
記憶にある母よりも、少しだけ頬を削げさせた女は、私を見てふわりと笑った。頭が痛い。じめじめと、汗が浮かんでいく。
「久々に来たら、寝込んでるんだもの。駄目じゃない、あんな冷えた部屋にいちゃあ」
頭を殴りつけるような頭痛に、私は顔色を悪くしながら、それでも口角は無理にでも持ち上がっていた。
「うん、ごめん……」
そう呟いた声は、本当に誰のものなのか、私にも分からないくらいに震えていたと思う。