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 母親の作ってくれた薄味の粥を、ほとんど死んだような気持ちで口に含んだ。
 母があれこれと話をしようとするけれど、うまく頭には入ってこない。私は苦笑いしながら、うん、とかそうだね、とか、ありきたりな相槌を打った。
「ビックリしたのよ、電話も通じなくなっちゃったから」
「ああ、うん……。携帯、壊しちゃって。今修理中なんだ」
「そうなの? あなた、昔から抜けてるところあるからね」
 ふふ、と微笑んだその言葉の一つさえ、私の心をグサリと鋭利なもので突き刺すようだった。心臓が嫌な軋みを立てている。こうして母親と対面して会話をするのは、実に数年ぶりのことだった。彼女に向ける笑顔も、完全に他人行儀になっているのが、自覚できる。もともとそんなに親しいほうでもないが、会話のテンポも心地悪かった。

「そうそう、みずき。あなたに話があったところなの」

 母の顔がまともに見れなくて、ほとんど口から下に視線を向けていた。相変わらず丁寧にリップが塗られた上品な微笑。私はほぼ心を殺しながら「うん」と応える。

 ――ちょうど、その時だった。

 がちゃりと玄関の開く音が聞こえた。ほぼ同時に、最近では聞き慣れた間延びした声が響く。母が、その整った眉をピクリと歪めるのが、視線をあげた時に見えた。

「あれ、お客さん?」

 ひょこりと顔を出した人懐こい顔は、隣にいる母を見て表情を固まらせた。
 ――他人ごとのほうに、さすがだと感心してしまった。位置関係と、表情、年齢、様々なものから一瞬で辿り着いたのだろう。彼はただずまいを直すと、軽く会釈をした。
「ごめん、萩原くん。今お母さんが来てて……」
「いや、俺こそごめんね。帰った方が良い?」
「ううん。あ、えっと、今付き合ってる萩原くん……」
 母の方を向きなおして言えば、萩原は手慣れた風に穏やかに名乗った。最初は萩原がリクルートスーツを着ていたことを妙に思ったようだったが、それを察したようにすぐ彼が弁明をしてくれた。
「すみません、少しみっともない恰好で」
「いいえ、良いのよ」
「みずきさん、風邪だと窺っていたので心配で。気が急いてしまいました」
 はは、と萩原はいつも通りに柔らかく笑った。
 本当に、彼は不思議な人。私と初めて会った時もそうだったけれど、実に人の懐に入るのが上手い人だ。母親がこんなに穏やかに受け答えをする様は、父以外では初めて見たかもしれない。

 私はそんな穏やかな会話を他所に、一人ばくばくと心臓の音を大きくしていた。
 どこか第三者のように、彼らを見つめている。母の顔は、割かし広く知られている。萩原は賢い男だ。もしかしたら勘付いているかもしれない。
 ――だとしたら、嫌だなあ。
 なんて、本当に他人のことのように考えた。私は両親とかかわりがないように生きているのに。指先を弄りながら、ずっと考え込んでいた。心の奥ではそう呟いているのに、表には一向に文句の一つだって出てこない。そんな自分にも、嫌気が差す。

「それでね、みずき。あなた、こっちにいらっしゃい」

 まるで萩原との話の流れのように、母が私に告げた。
「……は」
 聞き返したわけじゃなくて、ほとんど吐息が零れた音が響く。自分のことを言われているのだと気づくまでに、それなりの時間を要した。
「住む物件も就職先もアテがあるから、大丈夫」
「え……? ねえ、どういうこと」
 気怠い額を押さえながら、私は母に尋ねる。何を言っているの。ただでさえ気分が悪いのに、頭が割れるみたいだ。心臓も、さっきから不規則に脈打っている。気持ち悪い。眉間に皺を寄せる私の気持ちを代弁するように、口を挟んだのは萩原だった。さすがに、母もここで口挟むのに良い顔はしなかったが、渋々といった様子で答える。

「こっち、っていうのは」
「……アメリカよ。私も夫もそこで仕事をしているので、不思議じゃないでしょう。家族だもの」

 その瞬間に、今まで堪えていた全てが放り出された。
 元々風邪を引いていて理性が薄かったこともある。急なことで、頭が纏まっていなかったことも。私は立ち上がった。それはもう、今までにないくらい乱雑に。お気に入りの椅子が、床に音を立てて倒れる。母も萩原も驚いたように振り向いたが、今はどうでも良かった。

 私はそのほっそりとした母の手首を乱暴につかんで、玄関に置いてある財布も携帯も引っ掴んでずるずるとその体を引きずった。私によく似た声で何かを言っているけれど、頭が痛んで聞こえない。
 
 ――うるさい、うるさい。うるさい、うるさい、うるさい!

 どうせ私のことを、家族だなんて思ったことがないくせに。
 今まで連絡だってロクにしてこなくって、顔だって見せなくって、アメリカに移住するときについてこいだなんて一言も言わなかったくせに。
 どうしてそんな私を家族だと言えるの。母とだけ名乗って、愛を与えようだなんて思っていない。母親と言う自分の立ち位置のための娘なのだ。あなたの言う通りに生きてきた私が、どんな気持ちなのだか、想像したこともないくせに!!

 全部、全部心の中の叫びだ。
 現実には、一言だって飛び出ていない。口にできない。空気を震わせることができない。こんな体に誰がしたというのよ。
 よく似た目つき、よく似た声、よく似た髪質。その体を玄関の外に押し出して、私は初めて彼女の背格好をしっかりと目に焼き付けた。私が歳を取れば、きっとよく似るだろう姿は、黒い薄手のワンピースを綺麗に着こなしていた。

「みずき! あなた……ッ」
「呼ばないで」

 ようやく現実に零れた声は、それだった。
 玄関に揃えられたヌードベージュのパンプスを、マンションの廊下へと放る。からん、とヒールが床に当たる音が、よく響いた。
「その名前で、呼ばないで。大事な名前なんだから」
 ――みずきさん。と、彼が呼んでくれた名前。その響きが好きだ。柔らかくて、可愛くて、愛おしい響きだ。これ以上汚すのはやめてほしい。ぐっと奥歯を噛みしめて、私は勢いよく玄関を閉めた。

 チェーンを掛けて、私はずるずるとその場に座り込む。
 自然と涙が出てきた。止めようがないくらいに、ひたすらにボロボロとこぼれ落ちる。どうしてかは分からない。悲しいのか、悔しいのか、虚しいのか――どの感情とも違うような気がする。

「……みずきさん」

 ひたりと、廊下を大きな足が歩いて近づいた。
 萩原は、そのあとも何も聞かなかった。けれど、代わりのようにギュウとしっかり私の体を抱きしめて、赤ん坊を寝かしつけるように大きな手で背を叩いた。子どもみたいにワンワンと泣き続けながら、私はその背にしがみつく。

「きらわないで」

 涙を零しながら、うわ言のようにそうぼやいた。
 萩原はそのたびに「うん」と柔く頷く。それでも満足できなくて、何回も何回も、その愛を確かめるように口にする。

「お願い、嫌いにならないで」
「うん」
「どっかにいかないで」
「うん、大丈夫……」

 とん、とん、と心地の良いリズムが体を揺する。
 驚くべきことなのは、別段母を追い出しても心が晴れやかではないことだった。寧ろ、やってしまった、どうしようという後悔がついて回る。先ほどまであんなに腹立たしく、疎ましく思えたのに、心の底はもう母の姿を追い求めていた。 

 この感情の行き場をどうしたら良いのか、分からないままに萩原に縋った。もう、私の心には彼しかいなかったのだ。彼を失ってしまったら、きっと心までどうにかなってしまう。

 だからひたすらに泣いた。「嫌いにならないで」――まるで、呪いみたいな言葉だと、自分でも強く思うのだ。