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 その後の休日は、殆ど寝込んで過ごしてしまった。
 無理をしたせいか、知恵熱でも出たのか、暫く高熱に魘されてしまい記憶は薄い。一つ確かなことは、萩原が心配そうに私の額を撫でていたことだ。汗ばんだ額から髪を掬って、何度も「大丈夫」と撫でてくれていた。それだけは、覚えている。

 日曜の夕方になると、さすがに申し訳なくて、私は萩原に「もう大丈夫だから」、と彼の背中を送り出した。最後まで後ろ髪を引かれた様子ではあったけど、私が大人しくベッドの中にいることを約束すると、彼はうすのろに部屋を出ていったのだった。

 代替えの携帯には、両親の番号は入っていない。
 ――良かった、と心底思う。母はまだしも、父の逆鱗に触れたら、私の度胸では立ち向かえる気がしない。私は携帯ショップに行くことをずいぶんと億劫に思いながらオフィスのパソコンの電源を落とした。

「橘さん」

 声を掛けてきたのは藤井だった。この夏に、髪をばっさりと切ったらしい。もとから爽やかだった笑顔がよく映える。
「もう体調大丈夫なんすか?」
「うん、もう大丈夫……。迷惑かけてごめんね」
「とんでもないですよ。お大事に」
 心配そうにこちらを見遣る姿に礼を述べて、なんとなく退勤の道を共に歩いた。特に断る理由もなかったし、駅前までは一緒の道なのを知っていたから、自然な流れで。蒸し暑さの残る日暮れに、藤井は露骨に息をついた。私は少しだけ笑いながら、そうだと話題を切り出す。

「CD、返しといたから」
「ありがとうございます! や、本当に橘さんをパシリみたいに使って……すんません」
「良いよ。あの曲良いよね、私も結構ハマっちゃった」

 そう言えば、藤井はその丸こい、犬みたいな目つきをキラっと輝かせた。食い気味にぶんぶんと頷く様子に、少しだけ驚く。まさか嫌いではないだろうと思っていたが、中々にファンらしい。
「ですよねえ、萩原のやつもスゲー好きで……俺それでアイツと仲良くなったんで」
「そうなんだ。聞いてなかったなあ」
「学生の時はすげーハマってたんですよ。ライブとか行ったり」
 楽しそう、と微笑ながら、そういえば彼の口からあまり昔のことを聞かないなあと思った。聞くといえば松田のことばかりで、萩原自身のことは深く話さないように思う。最初出会った時にも自身のことを語ることもなかったし、彼が自ら語ったことといえば、警察になるということだけだったかもしれない。

 ――我慢、しているのかなあ。
 なんだか、それが不安だった。唇の皮をぴりっと捲りながら、ぼんやり萩原のことを考える。
 私と萩原に、共通点と呼べるものは少ない。
 音楽の趣味も、食の趣味も、映画の好みも、何もかも違う。時折、どうしてこんなに穏やかに過ごせるのだろうと考えることがある。もしかしたら、萩原が自らの好きなものを押さえこんでいるのではないか。そう考えてしまうのだ。
 
 我慢するなら私がするのに。
 萩原ばかりが、そんな風に自分を抑え込むことはないのではないか。藤井と別れてからも、そんなことが頭の中をぐるぐると巡った。

 バンドだって、そんなに好きなら言ってくれれば、私だって好きになれるのに。

 一人きりの部屋に帰ってからも、ひたすらに萩原のことが頭を巡ってしまった。今はただ、彼のことが恋しく愛おしい。はやく、あの長い腕で抱きしめてほしかった。広い背中に凭れたい。大きな手を握りたい。長い髪に、頬を擽ってほしい。

「……けんちゃん」

 誰もいない天井に向けて、ぽつりと呟く。
 もちろん、部屋の中には誰もいない。いるはずがないから。私のつぶやきはただ冷房に流されて、どこへともなく消えるだけだ。十月には、萩原は警察学校を卒業する。そうしたら、警察官としての配属も決まり、審査さえ通れば同棲もできると言っていた。早く、その日になれば良い。彼がどこにも行かないと、私の場所にいると、ひたすらに安心したかった。




 八月の終わり。携帯ショップに修理を終えた携帯電話が届いたと連絡があった。取りに行かなくちゃあな、重たくため息をついて、日焼け止めを腕に塗る。早く萩原のところに行きたいが、今日は彼は実家にいる日だ。お盆休みを私と過ごした分、しょうがないことなのだけど。

 彼が父親と電話越しに喧嘩をしていたのが、ずいぶんと昔のことのように思える。あれから家族仲は良好らしく、彼から家族のことを聞く頻度も少なくなった。修理を終えたばかりだけど、携帯を変えようか――否、それでまた家に乗り込まれても困る。電話で済むなら、電話で対応しよう。

 自分の整理番号が呼ばれて窓口に向かう。代替え機を返却し、自分のものを受け取る。精算のサインをしている時に――ふと傍らから視線を感じた。それはもう、チクリチクリと刺すような視線だった。

 ――なんだろう、私今日なんか変だっけ。

 確かにいつもよりも服装はラフだし、化粧も薄いけれど。寝ぐせがついているとか――。居心地悪く、髪を押さえつけながら視線を逸らす。しかし、いくら待てどその視線がどこかへ向かないものだから、観念して髪の毛ごしにそちらを向いた。

「やっぱり。彼女さんよねぇ?」

 間延びした口調――聞き覚えがあった。
 私はカーテンのようになっていた髪をすっと耳に掛けて、その声のほうへ視線を向ける。甘く華やかな顔立ちは、私が恋しく思っていたものによく似ていた。シルバーのチェーンピアスが揺れるたびにキラキラっと光を反射する。

「あ、えっと……萩原さん」
「あはは、お姉さんで良いよぉ。研二は?」
「今日は実家のほうに帰るらしくって……」
「へぇ。珍しい。前はあんなに父親と顔合わせるの避けてたのに」

 気が変わったのかしらねぇ、と彼女は指を口元にあてて独りごちた。萩原によく似た、横に広い唇には、柔らかくヌーディなマットリップが乗っている。周囲の視線がチラチラと彼女を射止めているのが分かった。同性から見ても、座り姿さえ色っぽく、目を引くのは理解できる。

 彼女もどうやら精算を終えたらしく、「お茶でもしていく?」という言葉に甘えて、近くの喫茶店に入った。チェーン店の看板は、あまりに彼女にそぐわない。長く艶やかな黒髪を掻き上げながら、彼女はニコリとこちらに向かって微笑んだ。

「みずきさん、だったかな」
「は、はい。橘みずきです」
「橘みずき――……」

 私の名前を聞くと、それを何度か小さく復唱して、暫くしたあと「みずきさんね」と今一度微笑みなおした。なんだか妙な間だったような気もするが――その違和感を飛ばすように、店員がケーキセットをテーブルに置いた。

「私は香。萩原香です」
「……綺麗」
「ありがとう、よく言われるの」

 香と名乗った萩原の姉は、フォークで中々大胆にケーキを分断した。大きな口にクリームをたっぷりと放り込む姿は決してラグジュアリーな雰囲気でなく、萩原の顔にそっくりだ。しかし、その名前のように綺麗な女性だ。自然とほほ笑んだ頬の豊かささえ、美人の象徴と捉えることすらできるかもしれない。

「研二はどう? 迷惑かけてない?」
「いえ、そんな……。いつも迷惑かけっぱなしで」
「研二が、でしょ。ほんっと、昔から滅茶苦茶よ、アイツら」

 アイツら、のら≠フ部分に自然と松田が入っているのは、容易に想像できた。幼馴染だと言っていたし、きっと昔から似たような風だったのだろうと思う。
「人の携帯分解するし」
「ぶ、分解……」
「ありえないでしょお。馬鹿なの、バ、カ」
 ふんっと高い鼻を鳴らしながら、手入れの行き届いた指先でコーヒーカップを摘まんだ。香はそれから何度か幼い頃の話を交わしながら、しかし萩原に似た太い眉を僅かに顰めた。

 するり、と長い指が耳たぶを柔く掬う。
 その癖をみて、私は「あ」とつい声を漏らす。萩原と同じだ。私がその指先を見つめていると、香は私の視線に気づいたらしい。複雑そうに視線を落として、それから、重たく綺麗な唇を開いた。

「……みずきさんって、橘グループの?」

 その問いかけに、いつもならばすぐに首を横に振ったと思う。
 ただ、そこで言葉に詰まってしまったのは、恐らく香があまりに萩原に似ていたからだ。その仕草や口調や、表情が――まるで萩原に問い詰められたような気持ちになってしまったからだった。

 ぎゅっと噤んだ唇は、恐らくすぐに肯定だと見抜かれたに違いない。