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 幼いころから、掛けた時間が全てではあった。
 それが、両親の教育方針であり、同時に会社の運営方針でもある。父親はもとからの富豪ではなく、一世代で会社を立ち上げ成功へと上り詰めた若手のビジネスマンだ。例えば今使っている携帯も、家電も、果てはマンションに至るまで、彼らのグループが関わっていたりもする。
 そんな成功者に、世間が注目を集めるのは当然のことだ。
 ビジネス書や雑誌、テレビにも顔を見せることがあって、恐らく街中でも社会人であればたいていが見覚えのある顔だと思う。
 しかし、私は別だ。もとから両親は家に帰るほうではなく、かといって不自由が与えられていたわけでもない。生活費は振り込まれていたし、ハウスキーパーが家のことはしてくれた。ただ、親子揃ってどこかに出掛けたりだとか、仕事場に行くだとかそういうことはなくて、きっと彼らに娘がいる事実さえ知らない人は多いだろう。何せ、行事ごとにも一つと顔を出さない親であったから。

 寧ろ、なぜ香がそれに気づいたのか、私の頭にはその可能性が巡っていた。
 
 まさか、萩原が言ったのだろうか。しかし、それにしては香の表情には疑心がある。寧ろ心配をしているような、そんなお人好しの感情が滲んでいた。口を噤んだ私を見て、彼女は小さく「そう」と呟く。

 どうして、そう尋ねる前に、彼女はゆっくりと長い指先でソーサーをなぞりながら口を開いた。
「ごめんねぇ、急に言うべきじゃなかったかも」
「……いえ、その……。確かにビックリはしました」
「そうよね。ごめんなさい」
 その太い眉が下がると、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになる。そんな顔をしないで、私は首を振って、「そんな」と零した。

「彼がね、ちょっと知り合いで……貴方の話を聞いた事があったのよ」
「私の?」

 私は、訝しく眉を顰めた。聞いたって、何を――。
 自分の心に聞いてみても、とんと見当がつかなかった。「貴方のよ」、香が言う。だって、両親が友人にさえ、私の話をするような人には思えない。しかも、名前を出してまで。たくさんの疑問符が頭の中に満ちて、私は再び押し黙ってしまった。


「お気の毒に」


 沈んだ私の肩を、香が柔く叩いた。その言葉の意味も理解できなくて、私は恐らく驚いたように顔を上げただろう。しかし、香はニコリと微笑んだ。
「何かあったら研二と一緒においで」
 彼によく似た大人びた微笑に、それ以上の言及はできなかった。しかし、心はいつまでも彼女の言葉が巡っている。修理された携帯電話には、両親の番号が入っていた。




 ――お気の毒に。

 どういう意味だろう。まさか、以前あったことを皮肉っているようには見えなかった。し、両親のことだ。とてもじゃないが、私の想いをくみ取って話をするようにも思えない。
 ――駄目だ、私は誰の気持ちも、誰も思惑も感じ取ることができない。
 それが不安でしかなかった。両親のことも、萩原のことも、どうしてこんなに何も分からないのだろうか。近くにいる人のはずなのに。

 ため息をつきながら家に帰ると、廊下が明るい。陽が落ちるのも少しずつ早くなってきて、室内はやや眩く思えた。玄関に放られた大きな靴に、私は履いていたスニーカーを脱ぎ散らかす。リビングからする物音に、ひたすらに走って、扉を押し開けた。

「わ、お帰り」

 丁度パスタを湯切りしているところだったらしい。もくもくと白い煙が彼の表情を隠していて、それがもどかしくて、ひたすらに彼の体まで走り寄った。大きな背中にぎゅうと抱き着くと、萩原は笑いながら「危ないよ」と言う。
「なんで? 今日は実家泊まるって言ったのに」
「顔は見せたし、良いよ。みずきさんまだ病み上がりだろ」
 抱き着いた体は、赤ん坊を寝かしつけるようにゆらゆらと左右に揺れた。私もそれに合わせてその広い背中に鼻先を押し付ける。
 作っているのは明太子パスタのようだ。電子レンジにかけられた明太子が、部屋に香った。

 心配をさせてしまったのだろうなと思う。
 優しい彼のことだから、放っておけなかったのだろう。前なら申し訳ないと思っていたはずなのに、今はそれが嬉しく、安心した。まだ、萩原は私のところにいてくれるのだと強く感じたからだ。

 萩原の姉に会ったということは、なぜだか言い出せなかった。
 別に彼女のことが嫌いなわけでもなく、寧ろ私からの感情は好意的だ。見た目こそ華やかだが、萩原に似た、優しい女性だった。でも、今その話をしたら、現実の憂鬱さに引っ張られてしまうような気がしたのだ。
 今は、彼が見せてくれる心地の良い空間にひたすら埋もれていたい。
 そのためなら、自分の自由などなくて良かった。確かめるように強く強く抱き着くと、高い位置から可笑しそうに笑い声がするのが分かった。

「嬉しいけど、もうごはんできるよ」
「うん……。分かってるよ」
「なーに、今日は甘えただねぇ」

 そのゆったりとした低い声が耳に馴染む。大きな手が私の手に重なって、彼の体がくるりと振り返った。こちらを見下ろす眼差しに、私が映っている。瞳に映るちっぽけな私は、確かに、疲れた顔をしていた。  

「携帯直った?」
「直った。でも暫くは良いかな……」
「なんで」
「君以外と今は話したくないから」

 少しだけ憂鬱さをため息をともに吐き出すと、彼は苦笑いしながら私の脇に手を入れた。私が首を傾げる前に、ひょいっと体が持ち上がる。彼の身長が高いから、キッチンの棚に頭をぶつけそうになった。
「ああ、ごめんごめん」
 くつくつと笑いながら、私の体をくるっと一回転させる。それほど小柄なほうでもないのだけど、ぬいぐるみみたいに彼の為すがままだ。

「じゃあ、今日は俺とだけ話そう」

 ようやく足が地についたとき、同時に体がソファに凭れた。彼もどっしりと私の傍らに座って、膝をソファに乗り上げる。ラフなベージュのシャツの下に、黒いタンクトップが見えた。
 すりっと私の手に頬を摺り寄せ、ゆっくりと薄っぺらな私の体をソファへ倒していく。クーラーの効いた部屋なのに、相変わらずその体温は熱かった。

「話すってコレ?」

 ムード一杯なところだけど、これは対話に入るのだろうか。なんだか可笑しくてつい言及してしまった。少し、意地悪だったかもしれない。萩原は私の言葉に軽く眉を持ち上げて、肩を竦めた。

「一応ね、体の対話」
「ふふ、屁理屈。今考えたよね」
「バレちゃったかぁ」

 喉の奥を鳴らして、萩原が笑う。笑いながら、私の額に、頬に、唇が触れていく。私も笑っていたから、二人分の笑い声が頭に響いていた。ひとしきり笑ってから、長い指はするっと私の耳の縁をなぞった。熱い。たぶん、血が集まっているから、そこだけは私と萩原が同じ体温になっていた。


「俺ねぇ、みずきさんが好きなんだぜ」


 語るように、独り言のように、耳をスリスリと撫ぜながら彼は言う。ふと、彼の癖を思い出した。香も、同じように耳たぶに触れていた。昔からそうなのだろうか。だとしたら、案外お姉さんっ子だったりして。
 その一つの仕草さえ愛おしく思えて、香水が香る手首に擦りより頷いた。

「私も、たぶん、研ちゃんが思うより」

 何処でも良い。何だって良い。
 萩原が隣にいて、こうして私に触れてくれているのなら。毎日が嫌いなものばかりに彩られていたって、きっと美しく輝いていると思う。

 重なった唇の中身は、少しだけ冷たく感じた。きっと、冷たい麦茶でも飲んだのだろうな、とキスのなかで考えた。