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 夏模様だったカレンダーのページが変わった。
 赤い紅葉がページを彩り、十月の頁には紅葉と同じ色合いでぐるりと丸が数字を囲んでいる。萩原が、警察学校を卒業する日だ。まだ暑さが残り、日中は厳しい日差しが差しているものの、夜には少し冷え込むような気候が訪れていた。

 あれから、母親からの連絡もない。
 少しキツく言い過ぎただろうかと思うものの、心はだいぶ晴れ晴れとしていた。あの日が異常だっただけなのだ。元の生活に戻って、同棲も近いのではという想いもあり、だいぶ気分も良かった。

 今月の末には、香の娘の運動会があるらしい。
 何でも『研ちゃんが応援にきてくれないと嫌だ』というものだから、彼も一緒に行くのだそうだ。香は料理が苦手らしく、萩原から弁当の指南を頼まれていた。今が二週目だから、再来週か。


「と、いうわけで……」


 ぱちんと言う拍子で、周囲のざわめきが静まった。私は苦笑いしながらキッチンの前に立っていた。
「……なに、コレ?」
 萩原のほうを振り向いて尋ねると、彼も同じように苦笑いして「ごめん」と軽く謝って見せた。別に怒っているわけではない。ただ、この状況は何かと聞きたいのだ。左方、松田、伊達。右方、降谷、諸伏。どうして、警察学校の同期がこうも揃っているのかが不思議でしょうがなかった。

「ごめん、今日弁当作るっつったら来るって聞かなくて」
「あはは、そういえば弁当の中身って勉強したことないなって」
「ヒロが習うなら僕もできないと恥ずかしいだろ」
「班長はカノジョにやるんだと」
「……お前はつまみ食い担当だろうが」

 伊達がため息をつきながら、私に向かって「悪いな」と笑った。別に良いのだけど、さすがにOLの一人暮らしに成人男性五人が入り込むと、キッチンも手狭である。見た限り松田はすこぶるやる気がなさそうなので除外して良いとして――。

 香に教える予定だったのは、定番の弁当の中身だ。最初から凝った難しいものを作っても負担になるだろうし、見た目が鮮やかであればどんどんと冷凍モノを使っていこうと思っていた。しかし、教える前に一度作っておかないと――と、萩原に味見役を頼んでいたところだった。

「ごめんな。大勢で押しかけて」
「ううん、気にしないで。諸伏くんには前の携帯のお礼もあるから」

 彼らには、何かと世話になっている。弁当の一つや二つで良ければいくらでも教えるけれど。悩みながら、料理経験がありそうな諸伏には作り方とコツをあらかじめ伝えておくことにした。簡単な内容だし、降谷とは仲が良いようだし。
 見栄えを重視して、おにぎりではなくカップにチラシ寿司とオムライスを詰めてもらう。上にノリやハム、ケチャップで飾り付けをしやすいだろう。

「へえ、カップ使うのか」
「うん。取り分け安いし、お弁当箱汚れないしね」
「見た目も可愛いな、やってみるよ」

 にこやかに手際よく材料を取り出した諸伏は置いておき、問題は松田と伊達だ。松田は――手先は器用かもしれないがやる気がないし、伊達は本人曰く「料理はちょっと」ということだそうだ。
 ポテトは冷凍で入れるとして、あとはサラダと肉系、デザートも作りたい。面倒くさがりな松田にはサラダを託そう。適当に切って卵でも飾り付けてもらえれば幸いだ。伊達は彼女に作りたいと言っていたので、できるだけ料理っぽいもののほうが良いかも。肉団子を一緒に作ろう。

 萩原は――ちらりと彼のほうを見遣ると、その垂れた目つきはひどく優しく私のほうを見ていた。振り向いた拍子に視線があって、私は驚いて目を瞬く。

「何かあった? お腹空いたとか」
「ううん。みずきさん可愛いなあって思って」
「……そう」

 最近言われ慣れたとは思っていたが、こうも真正面から言われるとやっぱり少し恥ずかしかった。二人であれば君も可愛いなどと返したいが、今は私をジトっと刺す八つの瞳が痛い。
「おお、怖ぇ。嫉妬すんなよ、けーんちゃん」
「うるせえ。お前は黙ってレタス千切りな」
 と、萩原はイっと歯を剝きだしてからレタスの玉を松田に押し付けた。ぺりぺりと、乾いた音を立ててレタスの葉が剥けていく。――千切るんだ、一応。相変わらず仲が良いものだと感心しながら、私は萩原に視線を戻した。

「じゃあ、デザートお願いしたいんだけど……」
「任されました。これ通りで良いの?」
「うん、ジュースで色つけて寒天でゼリーに……。型ぬいて、サイダーとかにいれたら美味しいかなーって」

 彼も、見栄えを良くするのは得意そうだ。
 分からないことがあったら聞いてね、と言えば、彼もはいはいと頷いた。それでも相変わらずその視線が私から外れないので、私は固まった笑みで首を傾げた。彼は至極嬉しそうに、長い髪を後ろで纏めながら広い口を微笑ませた。大きな手が、艶やかな髪の間をスルリと抜けていく。

「……さっきから、どうかしたの?」

 笑いを零しながら尋ねると、萩原は「んー」と曖昧に返事をする。いつも笑みを崩さない男だけど、今日はいつもに増して機嫌が良いような気がする。不思議に思って、傾けた首が益々傾いてしまう。

「何でもないって。さ、作りますか」

 萩原が私の肩をポンっと軽く叩く。まあ、萩原がそういうのなら言及するのも可笑しな話か。案外、他愛ないことかもしれない。時折、深く考えていたと思えば「みずきさんに抱き着くのを我慢してる」と真剣に言う人だし――。

 なんて、軽い惚気になってしまった。
 私も、何だかんだと言って、馬鹿だなあ。萩原のことをちっとも責められない。自身に苦く笑ってから、伊達と肉団子を作るために肉を解凍しにかかった。





「おお〜……」

 感嘆の声をあげたのは、諸伏だった。
 この面子の中では一番感情の起伏が目に見えて分かりやすいかもしれない。分かりづらくても、降谷も満更でもなさそうにしているし、伊達もレシピの紙を見直しながら満足げに笑っていた。松田は、サラダを中々器用に作り終えて、今は昼寝中である。
 カップのオムライスとチラシ寿司には、型で抜いた小さな星やハートが散っている。萩原の作ったフルーツポンチはスープジャーに。彩豊かで、型に選んだ動物の形が可愛らしい。肉団子もタレが絡んで煌めいているし、ポテトとウィンナーは保存食を解凍しただけだが、見栄えは十分だ。

「すごい、可愛いなあ」
「ヒロ、これ習って使う場所あるか?」
「まあまあ。ゼロに娘ができるかもしれないだろ」

 諸伏が笑いながら言えば、萩原がぶっと噴き出した。降谷がじとーっと腹を抱える姿を見遣る中、どうやらツボに入ったようで、大きな体がプルプルと震えていた。

「笑うな」
「ごめっ、降谷ちゃんにソックリな女の子想像して……ふふっ」
「うわ。それすごい可愛いよ」
「ブッ! 待って、諸伏ちゃん、これ以上笑わせんな……」

 彼はこれ以上一人では抱えきれないと、ソファに体を投げだしている松田のところへ這いずるように歩いて行った。こちらからだとソファは背もたれしか見えないが、松田のもさっとした癖毛が揺れたのは見えた。

 それから十数秒ほど、萩原が笑いながら何かを話して、次の瞬間には大きな笑い声が部屋に響き渡った。
「ぶっ、わっははは! 腹いてぇ、ぐ、ふは……」
「だろぉ……だって、ちっこい降谷ちゃ……ふっ……」
 ばしばしと互いを叩きあっている二人はさておいて、私は伊達をちらりと見上げた。相変わらず、大きな体だ。普段近くにいるぶん、萩原の体の大きさも十分に知っているが、それより一回りと少しはあるかもしれない。

「よし、食うか」

 諸伏は諸伏で、拗ねたようにそっぽを向いた降谷に方向性の違うフォローを入れていて、それを聞いていたのはたぶん私だけだと思う。しかしそんなことを気にする様子はなく、彼は詰めた弁当を運んでテーブルに置いた。

 ――そういえば、あんなに笑ってるところ、久しぶりに見たかも。

 いまだに松田と大口を開けて笑い合う萩原を視線に留めて、私は思わず口角を緩めた。楽しそうな姿に、口元がにやけてしまうのが止まらない。そんな私の表情を見て、伊達は「また惚気か?」と軽く背中を叩いて笑った。