54


 九月の末週、金曜日から、私と萩原は二人で香のマンションへと訪れていた。高級マンションの最高層――萩原が玉の輿に乗ったという話は、疑ってもいないが真実らしい。付き合っている人は立場のある人らしく、籍はいれていないようだが、新居は幸福そのものに満ちていた。
 至る所に貼られた娘の絵や手紙、家族三人の記念写真に、きっと料理が苦手だという香のために貼られたレシピのコピーやデリバリーのメモ。恥ずかしそうに冷蔵庫からそれを剥がした姿に、私まで微笑ましさを抱いてしまった。
 
「はい、次は研ちゃんが犬ね」
「俺、犬?」
「こらっ、そんなところにオシッコしちゃ駄目でしょ」

 私が香と弁当の仕込みをしている間、姪の面倒を見る萩原がリビングで苦笑いしていた。なんだかんだいって、「ワンワン」と鳴き真似をしてやるあたり、やっぱり優しい人だと思う。子ども、好きなのかな。その笑顔には苦痛はなく、呆れながらも付き合うことに楽しさは感じているようだ。

「意外?」

 冷蔵庫で冷やす予定のゼリーをつくりながら、香が笑った。私は慌てて首を振る。
「いえ、そんな。萩原くんらしいです」
「そうかなあ。アイツ、そんなに子ども好きそうに見える?」
「寧ろ嫌いなものとかあるんですか」
 特に他意はなかったのだが、私はきょとんと聞き返してしまった。だって、彼が他人に対してぐちぐちと言うところを見かけたことがないのだ。強いて言うのなら、松田に対してだが――あれは、ほぼ友愛というものの一部に思える。喧嘩するほど何とやら、だ。

 彼は何かにつけて器用で優しく、少しばかり慎重な性格をしている。それは誰に対してもそうだ。長居付き合いの人であろうが、行き当たりばったりの人だろうが変わらない。だからこそ友人も多く、女性からも好意を持たれやすいに違いない。
 自分もそんな彼に魅了されてしまった一人なのだけども――。
 香は私の顔をジっと見つめて、それからその大きな口を開けて笑った。今日は化粧気がなく、笑った顔はますます萩原にソックリだったと思う。

「ふ、あはは。ごめんねぇ。そっかあ、アイツも好きな人には甘いってか」
「え? あるんですか」
「良いんじゃないのぉ。みずきさんにないっつったらないのよ」

 その言い方だと、彼にもやっぱり苦手なものがあるのだろうか。まあ、人間なのだから、きっとそうだろう。私はもっと萩原のことが知りたい。好きな味、好きな香り、好きな音楽。じゃないと、もし嫌いなことを押し付けてしまったらどうしようと心配になる。

「あ、ちょっと。みずきさんに何話してんの」

 大笑いしている香の声を聞きつけて、萩原が怒ったようにリビングから顔を出した。私は少しだけ落胆する。本人がいなければ、あれこれと質問しようと思っていたからだ。しかし、すぐに小さな手が大きな足元にぎゅうっと抱き着いて、そんな考えは飛んで行った。

「勝手に行っちゃ駄目でしょー。お留守番よ、研ちゃん」
「へえーい、でもさっきから俺お留守番しかしてないんだけど……」
「ママはお買い物なの。明日はパパとデートだから、キレイにしなくちゃ」
「子どもの前で色気づくなよ……」

 呆れたようにする萩原が、ずるずると引きずられていく。その視線は香に向いていて、彼女はあははと乾いた笑いで頭を掻いていた。きっと彼女がデートの準備をする姿が、輝いて見えたのだろう。私もそれを想像して柔く笑った。


 弁当の仕込みが終わり、香は娘を寝かしつけてくると、幼い手を握り寝室へと向かった。ややマセたようには思えるが、やはり精神は幼いようで、「眠たくない」と緊張した面持ちを見せていた。

「明日は一番かっこいい所見せるんだもんなあ」

 香によく似た真っ黒な艶がかった髪を撫でつけて、萩原も彼女を送り出す。それを見て、私の心に僅かな羨望と憧れが疼いた。

 ――あんなふうに、送り出してもらったこと、ないなあ。

 あれが家族なのか。あれが、愛というのか。それはやけに眩くて、頭の奥を痛くさせるものだったように思う。





「本当に応援行かないの?」

 萩原が、心配したように私の手を取った。
 近くの運動場からはすでにざわざわと人が行き交って、宙に吊るされた万国旗が風に踊っている。私は苦笑いをしながら頷く。香も遠慮はしないでと言ってくれたが、さすがに萩原の両親も来る場に向かうのは、ちょっとだけ気まずかったのもある。

「大丈夫。別に居心地が悪いとか、そういうことじゃないし」
 何なら帰ってくるまで家で待ってるよ、と念を押して言えば、萩原もようやくのこと表情を穏やかにして納得したようだ。
 
 萩原に似て色彩感覚は豊かな香は、具材さえ作ってしまえば飾り付けはそれはもう器用に行ってくれた。今から喜ぶ顔を見るのが楽しみだと、そう笑ってくれただけで私も満足だったのだ。 

 萩原にも言った通り、別にその場の居心地が悪かったわけではない。
 ただ、家族水入らずの中に私が入っていくのも――。萩原や香は気にしないと言っていたが、私は少し気になってしまう。



 弁当のお礼にと、萩原が昔から好きだったゲームや音楽、食べ物の趣向も教えてもらったし、折角なら好きなものを作って待ってようかな。ゲームも音楽も漫画も、聞いた事のないものばかり。面白いのだろうか、でも、あのバンドのように、彼が面白いというのならそうなのかもしれない。
 
 それが、ワクワクとした。彼の好きな物事に触れられるのが嬉しい。帰り道にCDショップで、香から聞いた歌手のアルバムを買ってみた。ゲームはよく分からなかったので、今度松田にでも聞いてみようと思う。

「好きな料理……手羽先?」

 手羽先かあ。手羽先って、あんまり作ったことがないような気がする。レシピを調べたら中京あたりで有名な食べ物らしくて、いつだか方言について話したことを思い出した。やっぱり、そっちのほうで親しい人がいたのかもしれない。

 折角だし材料を買って帰ろうかと、スーパーに寄った時だった。 
 籠を持った反対側のポケットで、携帯が震える。時計を見ればまだ午前中だったので、萩原ではないだろう。籠を肘に掛けて、携帯を開く。

 着信は、母からだった。

 私はその文字を見て、きゅっと口端を結ぶ。
 どうしよう、出ようか、出ないでおこうか。迷ったけれど、何を今更と意地を張って、携帯を鞄の奥へと仕舞いこんでおいた。
 これが、もし携帯を替えてすぐだったら出ていたかもしれない。けれど、既に数週間と経った今、私の胸には子どもじみた反抗心が芽生えていた。――これは思春期に、反抗心を持たなかったツケかもしれない。

 だって、今更連絡されたって、どんな顔をすれば良いのだ。
 ごめんなさいと頭を下げる? お前なんかと平手を張る? どちらも、私にはできないような気がする。それに、父親まで話を通されたら、それこそ終わりだ。彼が「来い」と言ったら、それは命令なのだ。その時私に人権などはなくて、今の仕事だって勝手に上と話をつけて辞めさせられるだろう。

 萩原の顔が頭を過ぎる。
 幼い小さな頭に、大きな手を優しく乗せて、慈しむように撫ぜる姿。
 命令なんかされなくたって、あんなにも目を輝かせる無垢な瞳。

 あれを見た後では、どんな理由を並べられようと、素直にはなれない。これ以上ムカムカとして、この日常を壊したいとも思わなかった。それから何度か携帯は震えたけれど、何度か繰り返すうちに、諦めたように鳴りやんだ。
 私はそんなこともなかったように、買い物を再開するのだ。