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 十月になると、陽が落ちるのも早くなってきた。さすがに半そで一枚という日も少なくなり、夕飯の用意をする頃には空は薄暗く靄のかかったような青で染まっていた。昨日から手羽先の下準備を終えているので、あとは揚げ焼きにするだけだ。

 薦められた漫画は面白くてつい全巻揃えてしまったし、松田に中古だからと貰ったゲームも既に周回してしまっている。いや、やっぱりやりすぎたか。なんて思うのだけど、今まで触れてこなかった分野だったから、どれも新鮮で楽しかったのだ。
 漫画なんて、せいぜい友人に借りてチラリと読んだこととか、彼氏の家で暇なときに流し読みしかしていなかった。真剣に読めば読むほど、その世界観にのめり込めばその分、ついつい頁上でしかない登場人物に感情までのめり込んでしまうものだ。最後の、主人公が全てを終えて故郷に帰るシーンなど心が震えた。

 手羽先といえば酒のツマミのイメージがあって、ビールも買ってある。いよいよ赤丸の日も近づいて、浮かれているなあと我ながら思う。だって、週に一度会うだけでも嬉しかったのだ。頻度が増えることを想像して、少々浮足立つのは許してもらいたい。

 コン、と鈍い音がした。
 一度は気のせいかと思ったのだけど、もう一度、コンコン、と。ようやくそれがノックだと気づく。インターフォンには何もなかったので、近所の人だろうか。やや恐る恐ると扉に近づくと、聞き慣れた声が「ごめん、開けて」と言った。
 萩原の声だ。すぐに気づいて扉を開けると、彼は手に紙袋をいくつか下げて、眉を下げながら礼を述べる。

「ごめんな、途中で鍵絡まっちゃって……」
「それは良いけど、どうしたのこれ」

 彼の手に掛かっているのはどれも高級店のロゴマークが入ったものばかりだ。私もそれほど詳しいほうじゃないが、恐らく成人した一般的な女性なら知っているだろうブランドネームだった。
 確かに警察学校に入校中も給料は入るはずだが、ここ数か月の給料では、とても買えるものじゃあない。驚いて、持っている菜箸を握りしめながら尋ねると、彼は重たそうに紙袋を下ろした。
「姉ちゃんから、この間のお礼だってよぉ」
「えぇ!? お弁当だけで……。貰えないって、こんなに」
「こっちは姉ちゃんの彼氏から。で、これは姪っ子ちゃん」
 どさどさと紙袋を下ろしながら解説していく、その最後に一つだけ玩具屋の紙袋が下ろされた。なんだか可愛らしくて、その紙袋に真っすぐ手が伸びる。ハロウィン仕様の包装紙を解くと、トイプードルのぬいぐるみだ。ふわふわとした桃色の毛は、肌触りが良い。

「……かわいい」

 それはぬいぐるみに言ったことでもあり、同じように犬役を買って出た萩原を思い返しての言葉でもあった。

「ね、みずきさんに似てるっしょ」
「え?」

 萩原が私と同じように口元を緩ませて言うものだから、私は「え」という口の形のまま数秒固まってしまった。彼も「え?」と私の真似をするように聞き返してくる。
「違った?」
 片方の眉をピンと上げて笑う萩原に、私は思わずふっと笑った。それから手に持った菜箸の存在を思い出して、慌ててキッチンへ走り戻るのだ。





「へぇ、懐かしい。俺ガキの頃すげえハマってたからさ」
「香さんに聞いたんだ。私漫画とかあんまり読んだことなくて」 

 そう返せば、萩原は苦笑いしながら「ぽい」と言った。時折少年のような顔を覗かせる彼の表情に、やっぱり教えてもらって良かったと思う。そういえば、香たちには何を返せば良いだろうか。さすがにあんなに高級店のものばかり――は無理だ。ボーナスが入っても、鞄の一つ程度で手一杯だし、そもそもプレゼントではいと渡せるような家族にはしょっぱいものだろう。

「気にすんなって、姉ちゃんがお礼って言ってるんだから」
「いやあ、でも……」

 菓子折り一つもらったのとはワケが違うのだ。頭を悩ませていたら、ぴょこっと私の傍にトイプードルが並んだ。ふわりと頬に柔らかい毛並みが触れる。

「わん」
「ふっ」

 萩原の低い声で犬真似をされて、私はぐっと飲んでいた麦茶を咽込んだ。だって、見た目はこんなに可愛らしいのに、勇ましい鳴き方をするんだもの。ズルいじゃあないか。頬にすりすりとぬいぐるみを寄せないでほしい、今は笑いを堪えているのだから。

「こっち向いてワン」
「ふっ、あは、あははは!」

 小刻みに動き出したプードルに、私は堪えられず横腹を抱えた。じゅうじゅうと手羽先が焼ける音と混ざって、ずいぶんと賑やかなキッチンになってしまった。

「そういやあさ」

 プードルをぽすっと紙袋にしまいながら、萩原が切り出した。私は手羽先を大皿に盛りながら相槌を打つ。
「姉ちゃんの名前って知ってたんだっけ」
 特に疑る――という様子ではなかった。けれど、ギクリとした。彼にそのことを伝えていなかったので、後ろめたさがあったのだ。ついついその動揺が先に来てしまって、相槌も曖昧になってしまった。

「き、綺麗な名前だよね。本当に良い匂いするし」
「そうかあ?」

 萩原は別に言及するつもりもないらしくて、私の言葉に小さく舌を出して見せるだけだった。それでも、胸の内ではドクドクと嫌な鼓動が鳴っている。菜箸の先が僅かに震えているのは、私だけが気づいていれば良い。

「……そうだよ」

 落とした言葉は震えてはいないだろうか。
 大きく呼吸を吸って、自分の胸の音を誤魔化したかった。出来上がったものを手際よくダイニングテーブルへと運ぶ広い背中を見て、エプロンを外しながらため息をつく。

「あれ、このゲームって陣平ちゃんの?」
「うん、凄い。よく気づいたね」
「授業中に何べんバラして怒られたもんかってね……」

 席に着きながら、松田に借りたレトロな携帯ゲーム機を、萩原はその長い指先で突いた。最初から綺麗な状態ではなかったけれど、確かによく見ればネジ部分には何度もこじ開けたような痕があった。ゲームをやっていたわけではない、というあたりが彼らしい。

 
 彼は手羽先に箸をつける前に、私の名前を呼んだ。
 いつもどおりの、柔く穏やかな呼び方。ちょぴり間延びした口調で、いつも通りの低い声だった。そして、長い指先が彼自身の耳たぶに触れる。

 私はそれを見て、箸を置いた。他愛のないことではないと、その癖ですぐに分かったからだ。香から、内緒にしていたことを聞いてしまったとか――。否、別に萩原に関わる話ではなかったはずだし、そんなことで怒るような人には見えない。
 前付き合っていた彼女を思い出させてしまったのだろうか。それ自体、良い思い出ではなかったりするのか。

 見上げるように彼を覗き見た。嫌われたくはなかった。
 萩原は私の姿を見つめると、同じように箸を置いて、腕を伸ばし私の髪の毛をすっと耳に掛ける。


「……無理しなくても、良いよ」


 少し溜め込んだ息の後、吐き出すように、彼はそう告げた。
 何のことだか分からずに、私は多分、その疑問をそのままに表情に表していたと思う。彼に心配されるようなことはしていないつもりだった。

「無理、してないよ?」

 私がそう答えると、萩原はやっぱり耳たぶを弄りながら、視線を少しだけ下げた。太めの睫毛は、その瞳に影を落とす。
「俺はね、みずきさんが幸せそうにしてたらそれで良いんだ」
「だから、別に無理してないよ……」
 それは、本音だった。
 きっと、私が彼の好みばかりを揃えたから、そのことを言っているのだろうと予想はついた。けれど、無理をしているわけじゃないのだ。私だって、それに触れて楽しくなければ好きなることなんてないわけで――。

「本当に?」

 ない、わけで――。
 そんな私の言い訳を見抜くように、一度下がった視線が真っすぐに私を見上げた。笑っていた口角が、強張った。――駄目、駄目、駄目! このままじゃあ、また前の繰り返しになってしまう。それだけは嫌だ、絶対に嫌だ!

「研ちゃんが嫌だったら、やめるよ」

 私はドクドクと心臓を鳴らしたまま、そう告げた。別に、良い。彼が嫌だというのなら、別になくたって良い。苦しくなる胸を押さえながら告げると、萩原の眉にぎゅっと皺が寄った。彼は何も言わなかった。

「ごめん。私、別に研ちゃんを困らせたいわけじゃなくて」
「そうじゃなくて、俺はみずきさんが好きなことをしてて欲しいだけで」
「してるよ。料理も、映画も、漫画も、音楽も……全部、私の好きなようにしてる」
 
 ――だから、嫌いにならないで。
 テーブルの向かい側は、手を伸ばせば届く距離だ。なのに、なぜだかその距離は遠く感じる。小さな声で「お願いだから」と彼に懇願したら、萩原はどこか鬱陶しそうに伸びた前髪を掻き上げた。やめて、そんな表情を向けないで。指が震えるのを、もう片方の手で覆って誤魔化した。


「じゃあ、もうやめるよ。漫画も、CDも全部やめても良いし――」
「――そうじゃねえって!」


 びくりと肩が震える。
 萩原の、その声を聞くのは二度目だった。それでも、自分に向けられるのは初めてだ。普段から穏やかな物腰からは、想像のつかないような声。優しい彼に、こんな声を上げさせたのはほかでもなく私だった。

 萩原はハっとしたように口元を押さえて、すぐに「ごめん」と謝った。
「……ううん、私こそ、ごめん」
 何でもないように、笑えただろうか。多分、引きつった笑顔を見て、萩原は力なく眉を下げて笑っていた。