56
週末が、こんなに憂鬱に感じたのは初めてだった。
自分でも、自分の悪い癖が出てしまったのだろうなあと反省はしていた。相談した同僚にもズバリと『みずきのそういうところ直さないと』と言われてしまったし、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
だって、それ以外に、彼の心を留めておく方法が思い浮かばなかった。
萩原は声を荒げてしまったことを相当心配していて、あの後も何度も謝ってくれたし、翌日は気にしていない様子でいつもみたいに過ごした。レンタルショップで借りたDVDは、私の好きなサスペンスものだ。ありがとうと言えば、いつもみたいにキスをしながら、ニコニコと微笑むだけだった。
けれど、心の奥に、ずっとあの声が反響している。
今までこうやって失敗ばかりしてきたのだ。今度からは、萩原の気持ちを考えて行動するようにしないと――。はあ、と大きくため息をつきながら、帰路に着く。
「……ハンバーグ」
――ハンバーグにしよう。この間の手羽先は冷めてしまっていたから、美味しいと笑う彼の顔が見たくて、私は買い物に踵を返そうとした。その時だった。手首を、ぐっと掴まれる。
驚いたが、掴まれた指先が明らかに女のものだったのは、触れた感触で分かった。細く冷たいしなやかな指と、長いネイルが当たる。
「みずきさん!」
呼ばれて振り向けば、長い黒髪が躍った。私よりも少し高い位置にある視線に、すぐ香だと気づいた。息を切らせて、焦ったような姿に首を傾げる。彼女のマンションからここまで、少し距離があったと思うが、私が萩原に用があったのだろうか。
「香さん、すみません。この間はいろいろ頂いて……」
「ああ、それなら……って違うのよ! こんな所で何してるの?」
「……何?」
香は時折、理解のし切れないことを言う。この間もそうだった。私はそのまま怪訝に彼女の顔を見上げた。香は私の表情を見ると、どうやら走って来たようで、荒れた呼吸を整えた。ハイヒールで走るのは、辛かったろうとも思う。
「――……まさか、知らないの」
――彼女は、独り言混じりにぼやいた。
だから、何を知らないと言うのだ。主語の消えた文章に、おずおずと頷いた。彼女は困惑したように垂れた目つきを左右へと泳がせ、それから私の肩を掴んだ。「落ち着いてね」と言う、その声が一番に震えている。
まさか、萩原のことだろうか。そうだったら、どうしよう。
今の私の心を占めるのは彼のことばかりだったので、ついそちらに不安が過ぎってしまった。そう思うとドクドクと胸が打って、あの時みたいに指が震えるのが分かる。
「みずきさん、あのね――」
◇
私はマンションへと走りながら、必死に着信履歴を辿った。何度も何度も震えていた携帯電話。今はシィンと静かなのが不気味だ。ようやく辿り着いたその番号に掛ける。最初は出なかった。それから、コール音が、二度、三度――。
その電話が取られた瞬間に、私は食い気味に彼女≠ヨ問いかけた。
「お、お母さんっ! お父さんは……!」
『あのね、お父様が危篤状態だって……。もう末期癌で、長くはないって……』
私、何をこんなに必死になっているのだろう。あれだけ拒んだのに、あれだけ、解放してほしいと願っていたのに。けれど、私の声色は必死という文字そのままで、きっとそれは母にも伝わったろうと思う。
『大丈夫、ひとまずは安定してるから……誰から聞いたの?』
「ちょっと、知り合いに……! なんで言ってくれないのよ」
我ながら勝手なことを言ったとは思う。拒んだのは、私だった。
何度も震えた携帯電話を無視したのも、家に来た母を追い返したのも――。全部全部、私だ。後悔と、動揺と、怒りと――苦しさと、感情がグチャグチャになって分からなかった。
ドアを押し開けるようにして息を切らせて帰ると、その音を聞きつけてか萩原が顔を出す。私を見て慌てたように駆け寄った表情を見る限り、どうやら香から大まかなことは聞いたのだろう。
彼の顔を見て、ちょっとだけ息が落ち着くのが分かった。
私をソファに座らせて立ち去ろうとするシャツの裾を、ぐっと掴む。ちらりと彼を見上げれば、萩原は嫌がることもなく傍らに腰を下ろした。
「だ、大丈夫なの……? 手術、したって……」
『うん。手術自体は成功してるのよ。ただ、もう転移には追いつかないから……あとは延命治療しかできないって』
「そんなの、いつから――」
知らなかった。それもそうだ、顔を合わせたことだって少なかったから。顔色が良いとか悪いとかいう以前に、今までどんな顔色だったかも思い出せないくらいだ。母親は少しだけ躊躇い、それからずいぶんと落ち着いた、弱ったような小声で話し始めた。
『……みずきが、子どものころから。ずうっと、ずうっとなのよ』
それから母親は、何度も私に謝った。私に心配をさせないように、病気のことを隠していたこと。体調が悪い時は、なるべく顔を合わせないようにしていたこと。将来に困らないお金を残すためだと、彼が精いっぱいに働いていたこと。
私はその謝罪を聞きながら、涙一つ流すことなく、呆然と携帯電話を握っていた。今は、仕事をしていたアメリカの病院にいるらしい。私はそこでようやく、母が「こっちにいらっしゃい」――と、そう提案していたのを思い出した。
――最悪だ。これなら、極悪非道な両親でいてくれれば良かった。
だって、私は父の優しい笑顔を知らない。私の見る父はいつも厳しそうな表情で、私がいい成績を残した時くらいしか話も聞きもしなくて。運動会だって、予定だけ立てて結局学校に来ることなんてなくて――。
謝らないで欲しかった。謝られたら、そのぶん自分が惨めになるような気がした。
親の気持ちを知らない酷い子どもだと、謝られるたびに罵られているようだ。だって、だって知らなかった。知らなかったんだよ。
『……気づかないように、って言ったのは、あの人だから』
――ごめんね。もう一度、母はそう謝った。
母が幼いころから口酸っぱく、父の邪魔にならないようにと言っていた。
父が幼いころから厳しく、母の負担にならないようにと叱った。
私はその謝罪へ、どう返したら良いか分からず、ただ押し黙った。沈黙が続く中で、母が少しだけ鼻を啜り『だからね、みずきを呼んだの』と言う。
『こっちに、いらっしゃい』
「――……」
ここで「うん」と頷けないのは、やはり酷い子どもなのだろうか。私の無言をそのままに、母は穏やかに語った。
『今まで寂しくさせてごめんね。もうあとちょっとだけだから……家族で過ごしたいのよ』
それは、今までずっと、私が欲しかった言葉なのだと思う。
ずっと、ずっと――幼い頃から、そう言って欲しかったのだと――そう思う。私は返事に戸惑い、口を噤んだ。日本だったら、私は素直に頷いていたかも。だけど――萩原の方へ視線を向ける。彼は柔く微笑んだ。そして、首を振る。
「それは、みずきさんが決めないと駄目だ」
大きな手が、私の頭をゆっくりと撫ぜていく。あの時、幼い小さな頭にしていたのと同じような仕草で。寝ぐせを撫でつけるように、髪が梳かれていった。
「――好きにするんだよ」
ぽんぽん、と穏やかな体温が、手のひらから伝わってきた。暖かい。今、私にこの体温を分けてくれているのは、母ではなく萩原だ。萩原の傍にいたいと思う。良いじゃないか、別れるわけではないのだもの。母に、一言頷けば良いだけの話。
「……ごめん、ちょっとだけ、考えるね」
『そう。体に気を付けて――……』
それが、できなかった。どうしてかは、その後何度胸に問い直しても、答えが出てこないのだ。けれど、待ち望んでいた言葉なのに、それがこんなに胸を抉るとは思えなかった。