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 買い物をしている途中で、父の顔が映った雑誌を見かけた。

 確かに、心なしか頬がこけているような気もする。ようやくのこと、香の言葉の意味が分かった。彼女は知っていたのだ。父が患っていることを、闘病生活を続けて――尚、助かる見込みがなかったことを。
 もしかして、こんなにも父のことを知らないのは私だけではと思うくらいに、私は父のことを知らない。だから、彼が私のためにやってくれたことだと言われても、いまいち実感が湧かなかった。

 このまま答えを先延ばしにするわけにもいかないだろう。
 ただでさえ萩原のことが心の奥に沈んでいたのに、私は日に日にため息が増えているのが分かった。萩原のことが、好きだ。これからも、ずっと一緒が良い。煌びやかなウィンドウの前で立ちすくんでいたら後ろにいる人に「ちょっと良いですか」と声を掛けられた。
 ちょうどアクセサリーが並んでいたショーウィンドウで、邪魔だったかなあと謝りながら体をズラす。

「ごめんなさい、ちょっと考え事……を――」

 と、振り向いた先にいる女性が、悪戯っぽく笑った。少し勝気そうな目つきに、私は一瞬だけ、悩んでいたことを忘れて声を上げた。
「明美ちゃん」
「ふふ、私たちって本当にブランドの趣味合うのよね」
 肩を竦める。華奢なラインにボルドーのワンピースがよく似合っていた。相変わらず綺麗な長髪が、大きな身振りに合わせてサラサラと揺れる。なんだか、いつもよりも洒落っ気に満ちているように見えて、尋ねてみると明美は頬をポっと朱色に染めた。

「ああ〜……、えっと。ふふ。そう見える?」

 なんて笑う姿は女性の理想そのもので、私はその姿に微笑ましく思いながら、一緒に買い物を続けることにした。少しだけ、その姿を羨ましくも思った。私も、萩原と付き合ったばかりのころは、あんなふうに笑っていたのか。

 それから、明美と一緒に買い物をしている間は、憂鬱な気持ちを忘れることができた。元々生活用品を買いに来ただけで、アクセサリーや服を買うつもりはなかったけれど、彼女と買い物をしているうちに手には紙袋が下がっていた。

 ――ちょっと無駄遣いだったかも。
 そう思いもするのだけど、明美が「それ凄い可愛い! 似合う!」と両手を叩いて喜ぶものだから、嬉しくなって買ってしまった。まさかショップからの回し者では――と疑うくらいだ。
 シルバーの、シンプルなネックレス。トップもついてない、チェーンネックレスだ。腕時計にもよく合っているような気がする。

 小さな紙袋を片手に駅までの道を歩いていると、明美がこちらをチラっと見上げた。そして、口元にニコニコと笑みを浮かべたまま言う。
「今日は、何かあった?」
 その言葉にパッと振り向くと、明美は相変わらず微笑んだままだ。――そういうところは、萩原に、少しだけ似ていた。彼もまた、いつもニコニコと微笑を絶やさない人だったから。

「……明美ちゃんはさ、その……。大切なものが二つあるときって、どうしたい?」

 少しアバウトすぎる質問だっただろうか。
 明美は妙な顔をすることなく、真剣に考え込んだ横顔を長い髪の隙間から覗かせた。暫く二人分のヒールの音が響いて、明美は私のほうを振り返った。

「自分の好きなようにするわ。二つとも守りたいなら守るし、どちらか選びたいと思うなら選ぶと思う。でもね――」

 明美は、いつもの笑顔を浮かべた。

 ――はずだ。その笑顔にどこか哀愁が帯びているように見えるのは、傾いた日差しがその顔に影を落としているからだろうか。それとも、微笑む姿を、無意識に萩原に重ねてしまったせいだろうか。


「それって、自由がある人の特権なの。忘れないで。いつでも、考える自由があるのなら――。それを手にする自由があるのなら、決めるのは自分の心なのよ」


 その夕焼けを浴びた笑顔はあまりに美しくて、私は一瞬言葉を呑んだ。明美は「なんて、恰好つけたわね」と肩を竦めながら、しかし冗談めかすことはなかった。
「……明美ちゃんは、違うの」
 尋ねてはいけなかっただろうか。不安になりながらも問いかければ、彼女は苦笑してウウン、と悩んで見せた。
「同じだよ。勿論。――私は、自分の心に正直なの。だから、今日は楽しかった」
 ありがとう、と微笑を向けられて、私も笑った。
 この後、アメリカに行くかもしれないという選択肢が頭に過ぎったからだろうか。彼女の微笑を見ることも、これで最後のように思えた。綺麗な長髪を耳に掛けて笑う明美に、私も笑った。

 美しい明けというには不釣り合いな、夕闇に溶けるような笑い方だった。彼女は私が駅の改札に入るまで、励ますように手を振り続けていた。




 自分の心――か。
 それこそ、私が一番分からないのだ。私がどうしたいのか、それを知りたいのに、自分の心は容易く答えを出してくれない。

 部屋に帰ると、萩原がグリルと睨めっこをしていて、私は頬を緩ませながら彼の背中に近づいた。萩原は私の帰宅には気が付いているはずだが、視線を寄越すことなく「お帰り」と真剣な顔をしていた。

 そんな数秒で、グリルの中身は焦げないと思う。
 でも、その姿がなんだか可愛いので、暫くそのまま洗濯ものを片付けながら見守っていた。風呂の準備を済ませてからリビングに戻ると、部屋に焼き魚のこおばしい匂いが広がっていた。

「良い匂い」
「これ、ケッコー上手くいったと思う」
「あはは。すごいすごい」

 ご機嫌に味噌汁を注ぐ姿を褒めれば、萩原は振り返って、すぐに首に掛かったネックレスに気づいた。
「お、可愛い。みずきさんに似合ってんねえ」
「本当? 買う気なかったんだけどね……」
「うん。……本当に、綺麗」
 そう微笑んだ顔は、腕時計を見たときと、私の髪を掻き上げた時と、まったく変わってはいなかった。萩原は変わらずに優しく、穏やかに、誠実なままだ。もしかすると、変わったのは私の方なのかもしれない。

 萩原の焼いた魚は、彼の言う通り良い焼き加減だった。塩味も丁度良く、味噌汁と白米がよく進んだ。彼は今日一日松田の車弄りに付き合わされたらしく、冗談交じりに松田の悪口ばかり言っていた。聞くところには、彼と同じ機動隊にスカウトを受けたようで、「あいつと同じ職場かあ」とため息をつきながら満更でもないことを知っている。


「……俺なあ、みずきさんが好きだよ」
「またそれ? 私もだよ」
「何回でも言ってあげる」

 ふふ、と得意そうに萩原は笑った。
 まるで自分の方が好きなのだと勝ち誇っているようで、私は苦笑いしながら、食後のコーヒーを飲む彼の隣に座った。暑がりの彼は、最近になってようやく薄手のカーディガンを羽織るようになった。私の肩に、頭が凭れかかる。髪の毛が擽ったい。

「……まだ、迷ってる?」
「――うん。まだ、決められない」

 今は、確かにそう言えた。それが私の本心だと分かっているのだろう、萩原は緩やかに「そうかあ」と頷いた。

「俺はね、別に家族ってことにこだわりはないぜ」
 
 淡々と、緩やかに、言葉が続く。何てことのない、映画の話をするときの声色と同じだった。
「家族だから一緒にいなきゃいけねえわけじゃないと思うし、今までの隙間を埋めようだなんて無理をしなくても良いって思う」
「……うん」
「みずきさんが良いと思うなら、縁を切ったってどうしたって、誰もみずきさんを恨んだりしないさ」
 私は、少しだけ期待していた。萩原がそのまま『だからここにいて』と、甘えるように願うことを。『一緒にいよう』と柔くキスをしてくれることを。そうしたら、何もかも振り切って彼のもとに行こうと思った。
 ――同時に、忘れていた。彼の根にあるのは、紛れもなく私への愛であり、警察官としての良心であることを。

「でも、俺は行くべきだと思うんだ」

 そう続いた言葉に、私は何も言えなかった。ただ驚いたように萩原のほうを見れば、彼は前を向いたまま、真剣な眼差しをたたえていた。つけっぱなしのパソコンの光を浴びて、青い炎が瞳に宿っているみたいだと――そう思った。