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 彼の真剣な眼差しを見て、私は暫く何も言えなかった。
 萩原も黙りこくって、ただ静かに外の道路を通る車の音を聞いた。コーヒーから登る、白い湯気を見つめていた。その間、私の頭のなかには様々な想いがひたすらに溢れていて、私はついにそれを言葉にできず、ぼろっと涙を溢れさせた。
 悲しかったのか、悔しかったのか。
 それすら分からなくて、言葉が見つからなくて、その言葉の代わりに一粒だけ涙が零れた。雫は私の手の甲に落ちて、それがやけに生ぬるく思えた。

 萩原は、たぶんそれに気づいたのだ。私の手にそっと彼の片手を重ねて、叱りつけるわけではなく、ゆったりと私を呼んだ。
「さっきも言ったけど、みずきさんが本当に嫌なら俺はそれで良いんだ」
「……嫌、って言ったら、傍にいてくれるの」
「モチロン。俺の人生のすべてを捧げて幸せにするさ」
 手の甲が、その長い指先で擦られていく。暖かい指先が、私の手に温もりを伝えた。その言葉にいつもの軽薄さはなく、表情も決して微笑んではいなかった。けれど、穏やかで、静かな表情をしていた。

「でも、それじゃあ駄目なんだ。みずきさんは、きっと幸せだと思えないから」

 萩原がそう告げて、私は涙をのみ込んで立ち上がった。萩原の表情を見たくて、ソファの前に立つ。彼はやっぱり、静かな瞳で私を見上げるだけだった。

「どうして、それが分かるの。私、研ちゃんがいればそれで良いのに」
「俺が、みずきさんをみずきさんではなくしちゃうんだよ」
「この間のこと、やっぱり怒ってるの? ごめん、もうそんなことはしないから……」

 髪をくしゃりとして謝れば、彼はマグカップをそっとテーブルに置き、私の手を握った。そして、ゆっくりと私をその場にしゃがませる。同じ目線になると、感情の揺らがない目つきがやや恐ろしく思えた。もう自分の中で決意をしているようで、私が何を言っても無駄だと思われているような気がした。


「聞いて」


 小さい子にするように、一文字一文字を丁寧に発音する。低い声だったが、物腰の柔らかな声色は暖かだ。軽く、頬にキスを落とされた。
「人に合わせるのは悪いことじゃないよ。好きな人のために何かをすることだって、何かをやめることだって、悪いことじゃあない」
「でも、この間……」
「俺だって、みずきさんのために煙草をやめた。みずきさんと好きなものを見たくて、いつもは見ない映画や音楽も聴く。だって、君のことが好きだから」
 私はそこでようやく、萩原の服から煙草の香りが消えたことに気づいた。今までずっと一緒にいたのに、気づかなかった。彼がおくびにも禁煙している風を見せなかったからかもしれない。私はつい、自分の唇をなぞるようにした。萩原は、それに小さく笑った。

「でも、みずきさんは、誰かに嫌われないために――見捨てられないようにそうしてるだろ」

 ――だって、そうだったの。
 今までずっと、そうだった。父にも母にも、友人にも教師にも、恋人にも。なるべく好きなことを共有しなきゃ、相手が気に入るような行動を取らなきゃ、そうしなきゃあ――……。振り向いて、貰えなかったのだろうか。分からない。そうすることが、身についてしまっていたから、結局のところどうなのかは分からない。

「たぶん、この先もその繰り返しだ。きっと、俺のために色々なことを我慢して、どんどん世界が窮屈になっていく。臆病になっていく。今のみずきさんに必要なのは、そうじゃないって――……そのままで愛してもらえると、知ることだ。ご両親と一緒にな」

 長い腕が伸びて、私のことをそっと抱き寄せる。暖かな体温が伝わる。私もその背中に腕を回して、複雑な気持ちのまま抱き返した。そんなことを言われたって、実感が湧かなかった。両親と共に過ごしたからと言って、それを分かるようになるとも思えなかった。それならいっそ、彼がずっと一緒にいてくれれば――それで良いのにとも、思った。

 とん、と大きな手が背を叩く。ぎゅうっと抱きしめる力が強くなって、彼は言葉を続けた。

「俺はなあ、好きなんだよ。みずきさんが好きだ」
「……さっきも聞いたよ」

 少しだけ笑いながら、私は頷いた。確かめるように、彼はもう一度同じ言葉を言う。
「ティーカップを綺麗に持つみずきさんが好き。工藤優作を好きなみずきさんが、機械が苦手なみずきさんが……好きなんだよ」
 低い声が、僅かに揺れた。耳元でなければ気づかないほどの震えだったかもしれない。彼はそのあとゴクンと喉を鳴らして、私をきつく抱きしめたまま、私の髪に指先を通した。そうしていると、とても落ち着いた。心拍が、ゆるやかに打つ。


「――だから、別れよう」


 ゆるやかだった鼓動が、一瞬で全身をドクッ、ドクッ、と大きくしならせた。
 彼がどうしてそんなことを言うのか、理解できても理解したくはなかった。その肩を掴んで剥がそうとしても、彼の抱きしめる力の方がよほど強い。

「な、んで……アメリカに行くのだって、別に別れなくたって!」
「それじゃあ意味がない。向き合わなきゃ駄目なんだ」
「でも、やだよ。私、それならアメリカに行かない! ずっと君といるよ」

 だって、私がそれで良いなら良いと、彼はさっき言ったじゃないか。
 けれど、何度反論しても、どれだけ嘆いても、彼は静かに首を横に振った。見えなかったけれど、触れる髪と体温でその仕草は分かった。

「だって、みずきさんはお母さんたちのこと、嫌いじゃないんだ」
「ううん、君の方が大切だよ」
「違うよ。本当は、一緒にいたいって、愛されたいって思ってる」

 なんで、彼が私の心を決めてしまうの。違う、私は萩原と一緒にいたいと言っているのに。私はそれにどうしようもない憤りを感じた。どうして分かってくれないのと、子どもじみた感情だった。

「別れたいなら、そうやって言ってよ。酷く言ってくれないと、分からないじゃん」
「……そうしたら、また泣いちゃうだろ」

 彼が、初めて会った時のことを言っているのがすぐに分かった。
 泣くよ、泣くに決まっている! だって、萩原がいない日々なんて考えられないのだ。酷く言われても、優しく言われても、そんなの泣くに決まっているのに。

 ――初めて、彼の優しさを酷いと感じた。
 
 今まであれだけ魅力だと思っていた、その心根の優しさを、なんて酷い性格なんだと思ってしまった。いっそ腹が立つと思わせてくれたら、その頬を思い切り叩いて飛び出ていくのに。――いや、無理か。そうするには、あまりに彼のことを好きになりすぎている。

「研ちゃんは、それで良いの……?」

 苦しかった。さきほど溢れた涙でさえ、感情を溢れさせるのには足りない。力なくそう問いかければ、彼はピクリと肩を震わせた。静かに、擦れた声が「うん」と答えた。緩まった体を引き離して、彼に怒りたかった。そんなことを言わないでと、訴えようとして――。

 できなかった。
 引きはがした彼の表情が、私の比にはならないほど涙に塗れていたからだった。その涙を、幾度か見たことがある。今まで流したどの涙よりも、彼の華やかな表情を汚していた。その嗚咽を堪えていたのだろうか、涙に張り付いた黒髪が、その目元を隠してしまっていた。

 私は胸がぎゅうと締め付けられる想いを飲み込んで、張り付いてしまった髪をそっと退かした。涙をぼろぼろと零すばかりの、黒目がちな瞳が覗く。溜まった涙が、瞬きと同時に零れた。睫毛まで、その涙で濡れてしまっていた。


「いいわけ、ないだろお」


 ぐずぐずと、とてもじゃないが先ほどまでの静かな声色と同じとは思えない、震えっぱなしの言葉が響いた。私はようやくそこで、萩原の愛を知った。彼が自分の想いよりも、私のこれからをずっと大切にしてくれてることに、ようやく気づいたのだ。
 先ほどまでとは逆だった。まるで、大きな子どもだ。
 それからもずっと、萩原は泣きながら「嫌だよ」「離れたくない」と独り言のように呟いた。私もそんな彼につられるように、瞳に浮かんだ涙を瞬きで押し出した。

 でも、もう縋ろうとは思わなかった。
 ここまで我慢してくれた萩原の想いを踏みにじることはできなくて。今度は私が言わなくちゃあ。彼がこんなに泣いてまで、送り出そうとしてくれた背中を。私が、進まなくちゃいけない。

「辛いことを言わせちゃって、ごめん」

 萩原の頬を緩やかに撫ぜたら、彼は涙を零しながら、そっとキスをした。涙の味がするキスを、何度も、何度も。触れるような優しさで繰り返した。