59

 雨の中で、しな垂れるように立ち尽くした姿を覚えている。

 ちょうど一年ほど前だったろうか。俺も、それなりに気分が落ち込んでいた。付き合っていた彼女が浮気をして、話し合おうとしたところを拒まれてしまったばかりだった。はあ、とため息が零れて、その肌寒さに手を摩ったものだ。
 その中に、彼女は立っていた。ぱっと顔を上げたときに、傘も差さず、こちらを見つめている姿と目が合った。――泣いているのだと、なぜだかそう思い込んでいた。放ってはおけなくて近づいて、ようやく、ああ、雨が降っていたのだと気づいた。

 綺麗な人だった。
 どこか遠慮がちかと思えば、やけに強引なところもあって、笑うと吊り上がった目じりがふにゃりと垂れるのが好きだった。たぶん人より首が少し長くて、髪を切ったあとはそれが顕著に分かりやすく、その輪郭がますます綺麗だと思った。

 彼女のことを、いつから好きだったのかは今でも分からない。
 時折悪戯に冗談めかしてくるところ。ちょっとだけ、恋に臆病になっているところ。
 強気に見えて、案外すぐに泣いてしまうところ。俺のあげた腕時計を大切そうに眺める視線。俺よりちょっとだけ冷たい、小さな手のひら。隣で眠ると、寝顔を見せまいと布団に潜ってしまうところ。

 沈むような恋だった。
 ゆっくりと、静かに、穏やかに、彼女のことを好きになった。
 俺の生活に、感情に、体に、すべてに少しずつ彼女が入り込む。今までの激しい感情の起伏とは違うが、誠実な彼女らしくて、心地の良い恋だと思った。
 劇的な一目ぼれだとかそういうわけじゃあなかった。彼女に救われたわけでもなければ、何かをしてあげたわけでもない。それでも、本当に、本当に好きだった。
 

 みずきが、時折不安そうにする仕草には、前から気づいていた。
 ずいぶんと前から、気づいていたのだ。だからこそ、俺はそれに応えたかった。俺が捧げる愛を、無償の愛を、そのポッカリと空いた部分に埋め込みたかった。そのままで良いのだと、そのままの君を好きだと、何度も伝えたかった。

「……俺が、見つけてやれればなあ」

 疲れて眠りこけた頭を抱えながら、ぽつりと呟いた。
 もっと早く――幼い彼女を見つけられれば良かったのだろうか。もっと昔から、俺は君が好きだと、ずっと笑いかけていれば、傍にいても良かったのだろうか。否、きっと違う。生まれてから心の奥に残っている呪いは、彼女自身が解いてあげなくては。

 頬に涙の筋が残っている。結局、泣かせてしまった。
 まあ、俺のほうがたくさん泣いたけれど――。柔らかな頬に触れれば、その細い肩が僅かに跳ねた。眠りが浅かったのだろうか。瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

「ごめん、起こした?」

 小さな声で尋ねると、みずきはまだ寝ぼけたようなぼんやりとした目つきを瞬かせた。まだ意識はハッキリとしていないらしい。反応が鈍く、数秒置いて相槌が返ってくる。

「……こわいなあ」
「……何が?」
「研ちゃんがいないのが、こわい」

 小さな手が、ゆっくりと俺の寝間着の裾を掴んだ。瞬くたびに、その瞳に涙の膜が揺れていくのが見えた。引き留めたいと思う気持ちを、ぐっと抑え込む。伸びやかな彼女のことが好きだ。――弁当の指南をつける彼女の姿を見て、その時から別れを切り出すことは決めていた。彼女は愛に怯えるよりも、彼女の好きなように生きるべきだ。

「……私、何もできないんだよ。誰かがいないと、好きな映画も、好きな本も選べないの」
「今から選んでいけば良いよ。片っ端から読んでご覧」
「仕事辞めるのだって怖いし」
「ふは、それはみずきさんらしくて良いんじゃねえの」

 よしよし、とその頭を撫ぜながら笑うと、みずきは吊り上がった眼を僅かに細めた。――あ、笑った。やっぱり、笑うと可愛いなあと思う。泣きはらしたせいなのか、その表情はどこか清々しい。

「でも、何より、手を繋いでくれる人がいないのが怖いの」

 囁くように零れた弱音に、俺だってそうだよと手を握った。冷えた指先。これからは誰が温めるのだろうか。願わくば、今度こそ彼女が自由に心から愛せる人であれば良いと思う。多分俺は、その人を心の底から呪うだろうが。

「ねえ」
「うん?」
「時計は、つけたままでも良い」

 手首についたままの、安物の時計。俺は笑いながら頷いた。不安げにこちらを見遣った彼女は、ほっと安心したように微笑む。

「……不安?」
「すごく。だって、小学校のときにはお父さんと話すことなんてなかったよ」
「じゃあ、俺と一個だけ賭けをしよう」

 枕に埋もれていた顔が、ひょこりと覗いた。俺の言葉を復唱するように「賭け」と聞き返す。俺はそんな彼女にゆっくりと頷いた。みずきは少し悩んだようだったが、暫くしてから「どんな?」と尋ねる。

「冬だけ、頑張って一緒に過ごして。もし辛くて苦しくて、どうしようもなく無理と思ったら帰っておいで」

 俺が言えば、彼女は驚いたようにその目を瞬かせた。戸惑って、「でも、そんな」と口籠る。
「でも、そうしたら、私多分帰ってきちゃうよ」
 と驚きながら告げる姿に、俺は笑ってしまった。それだけ、俺が好かれているということだろう。嬉しい。尚更、この手を離すのが名残惜しいと思えてしまう。

「い〜や? 俺は帰ってこないに賭けるね」
「……えぇ。私が有利すぎない?」

 くすくす、と上品な吐息が笑った。そりゃあそうか。だって、彼女の心次第で帰るも帰らないも決めることができるのだから。でも、俺には何となく、確信があった。彼女はきっと大丈夫だと、そう思った。

「じゃあ、賭けの商品は何ですか、研二くん」

 ふふ、とほくそ笑みながら首が傾げられた。
 その仕草、中々に可愛いので勘弁してほしい。一応、今夜は手を出さないと決めているのだから。

 俺はチリ、とその手首に掛かった時計に指を掛けた。彼女はぱっと、時計を隠すように後ろ手にやる。大切なものを奪われまいとする子どもみたいだった。

「それにしよう。俺が買ったら、みずきさんの時計は貰うよ」
「……そんなの、絶対負けるわけないじゃん」

 拗ねたように、彼女は口を尖らせる。みずきは「じゃあ私は帰ってくるに賭ける」と、ついっと顔を逸らしながら告げた。しまった、彼女は案外頑固だから、本当に帰ってきてしまうかもしれないなあ。苦笑いして、その額にキスを落とす。

 大丈夫。昔から、こういう勘は当たる方だ。

 きっと、彼女なら踏み出せるはずだ。心の優しい人だから。
 父母の想いを――そして、俺の想いを思い出して、しっかり踏みとどまってくれることだろう。彼女は自分を勝手な人間だと思っているようだが、それは違うのだ。人一倍、相手のことを考える時間が長いだけ。それは彼女の美点だ。だから、大丈夫。

 帰ってきたら――まあ、それはそれで良いか。
 その時は、俺が彼女をアメリカに送り返してあげよう。きっと不服そうにするだろうけど、彼女は両親を心から嫌っていない。本当に嫌いで憎いのなら、父親の話を聞いてあんなに必死に走るものか。取り乱して、心を動かすものか。

 俺はその気の強そうな目じりを親指で撫ぜて、冷えた肩を抱き寄せた。やっぱり、冷たいなあ。風邪を引かないか、体を壊さないか、それだけが心配だ。


「だあいじょうぶ。俺が勝つよ。――きっと、春はくるさ」 


 もう一度、今度は頬に口づけると、みずきは恥ずかしそうにしながら、俺の輪郭に指を滑らせた。手首にある時計が触れて、冷たい。そして、ふにっと耳たぶを触るので、俺は素っ頓狂に「うお」と声を零してしまった。

 するとみずきは、ふっと噴き出して、それから思い切り声を上げて笑う。
 
「ふ、あははっ! ごめん、ずっと、どんな感触なのか気になってたんだ」

 ――耳たぶが?
 たまに不思議なことを言うのだよなあ。俺は僅かに首を傾げて、しかし雪解けのような笑顔を見て、つられて笑った。綺麗な笑顔だ。いつか、遠くからでも、もう一度その笑顔が見れれば良いと思った。それは、雨のなかではなく、できれば、温かな日差しのなかであれば良い。