60

 ――彼のいない朝に、少しだけ慣れた。

 初めて迎える朝は冷えた部屋だと思ったのに、丁寧に暖房と加湿器のスイッチが入っていた。最後まで憎いほどに優しい青年の背中を思い出しながら、私は震える手で母に電話をした。彼女は、きっと泣いていた。震える声で「そう」と、繰り返していた。

 会社も、十月いっぱいで退職した。
 急なことで受け入れてもらえるか不安だったが、元々母親が話を通していたらしい。案外すんなりと仕事のルーティーンからも抜けて、あとは荷物を纏めるだけ。友人や同僚は皆口を揃えて寂しくなると言ったが、決して引き留めることはなかった。

 そして今日、私はこの部屋を引き払う。
 荷物は既に送っているので、あとは自分が鍵を返すだけ。空っぽになった部屋を振り返って、最後の荷物を持った。なんとなく、スッキリとした部屋を見ていたら、ゴミ袋に泣きながら荷物を放った日の夜を思い出す。

 ――飴。
 レモン味の、飴。なんとなく、食べたいなあと思った。一日分のホテルでの着替えを持って、階段を降りる。大家に挨拶をしてから、その足で最寄りのスーパーへ向かった。ちょうど、今くらいの季節だったような気がする。
 少し早足になって菓子売り場に向かう。見つけたキャラクターを引っ掴んで、それだけを会計した。やや行儀が悪いとは思いながら、駅へと向かう道すがら、その袋を開けた。

 小さな飴。メッセージつきの、レモン味。

 口に放って、包装の裏側を見ていたら、その酸味に涙が滲んだ。
 キャラクターは、こちらに向かって『負けるな!』と拳を握っている。恋しい。慣れるわけがないじゃないか。君のいない日に、こんなすぐに、慣れるわけがないんだ。

 どうか泣いている私を見つけてほしかった。
 いつもみたいに、後ろから冗談めかして声を掛けてほしい。「今日も俺のが先だった」と、穏やかに笑って。帰りは好きなハンバーグを作るから、一緒にスーパーに行きたい。冷えた手を、その大きく温かい手で包んで、夜の風を受けるその横顔を見つめていたい。

 たぶん、何度縋ったって同じことだろう。
 萩原は、きっと言う。「みずきさんなら大丈夫だよ」と。それでもまだ泣き縋れば、きっと最後は諦めて抱きしめてくれるだろうけど――。自分の正義を進むあの人の心を、愛に深い想いを、これ以上蔑ろにすることはできなかった。それこそ、私の好きな彼ではなくなってしまうのではないかと、思った。


『――きっと、春はくるさ』


 寝物語を聞かせるようにして、穏やかに笑っていた。
 綺麗な笑顔だった。どこまでも穏やかで、しかし瞳の奥には、強かな意思が燃えていた。

 彼のことが、好きだった。

 口に広がる、少し強い酸味が、じわじわとその気持ちを強調してくる。大丈夫と笑う笑顔を、甘える体温を、舞う香りを。その全てが好きだったのだと、私の心を揺する。

 じわっと溢れた涙が、ぽろぽろと頬を伝っていった。

 道行く人が、時折驚いたように私を振り返るのが分かる。
 ぽつんぽつんと、雫が頬へと降り注いだ。涙とは異なる、冷たい雫。私の流れる涙を誤魔化すように、雨足は次第に強くなっていく。私の肩を、頭を、ぽつぽつと色づけるように濡らしていく。

 だって、あの日から私の心は変わっていない。
 誰かがいないと好きなものも選べないし、努力をしないと不安に押しつぶされそうだ。強くなってなんかいない。何も、変わってなんかいないのに。どうやって私一人で、向き合えと言うの。乗り越えろと言うの。 

『俺は、好きだよ。みずきさんの頑張り屋さんなところ』

 覚えている。彼がキスをしたあとに、満足げに笑った瑞々しさを。

『俺はみずきさんと出掛けるのが好きだから』
『俺も好きだな……。みずきさんっぽくて』
『俺も、みずきさんが良いんだ』
『俺ねぇ、みずきさんのことが好きなんだぜ』

 ああ――違うじゃないか。
 あの日とは、違う。私は、彼に愛してもらっていた。何度も好きだと、言葉を、眼差しを、温もりをもらっていた。私は、私は――。

 ボリ、と口の中に残った飴を嚙み砕いた。
 濡れた頬を拭って、鞄の中から折り畳み傘を出す。大丈夫。彼が愛してくれた私だから、きっと、大丈夫。

 ぐずっと鼻を啜って、私は雑踏のなかへと溶け込むように踏み出した。もう、一人で傘は差せるよ。慣れることはないだろうが、きっと、歩けるはずだった。





 日本を発つ日を迎えて、私はいつも以上に緊張していた。
 頭の中のシュミレーションが巡りすぎて、昨晩はロクに眠れていない。手に持った工藤優作の最新刊をお守り代わりに、何度も同じ頁を行ったり来たりしていた。
 父親に会ったら、まずは何と言おう。この間の電話への謝罪が最初だろうか。
 それとも、今までありがとうとお礼を言うべき――? 何せ、関わった記憶のほうが薄いものだから、言葉が何も浮かばないのだ。好きな味も分からないので、土産も選べなかった。

 といっても、もうロビーには着いてしまっていて、母がとってくれた飛行機のチケットを眺めてその時間を待つだけだ。ああ、これなら早く機内に乗り込みたい。乗ってしまえばもうそれしか道はないのだもの。
 電光表示板に自分の乗る便が表示されて、腰を上げた。荷物検査もちゃちゃっと済ませて、逃げ腰になる前にゲートの中に入ってしまおう。


 荷物を肩に掛け、小説を仕舞いこんだ時だった。ふと、大きな手が肩に触れた。

 一瞬、私の頭の中に浮かんだのは、男にしては長い黒髪が靡く姿だ。ドキリとして振り返ると、息を切らした男が、私の肩をしっかりと掴んでいた。
「松田くん……」
 驚いたままに、その名前を呼んだ。サングラスを掛けていて顔こそ分かりづらかったが、くるっとしたパーマのような癖毛と「橘」と呼んだどちらも、紛れもなく彼のものだった。

「おまっ……え、なんべん電話しても繋がらねえから……」

 荒れた呼吸を整えながら、松田は顎に滴る汗を拭った。もう十一月だというのに、相当急いで走って来たのだろう。私は少し申し訳なく思って、眉尻を下げる。

「ごめん、携帯解約しちゃって……。よく時間とか分かったね」
「――萩に聞いてた。何も言わねえで行こうとすんな」

 拗ねたように叱る青年は、相変わらずその齢にしては幼いような気がする。しかし、モッズコートの下から伸びるパンツは紛れもなくスーツのもので、私は頬を和らげた。
「卒業おめでとう、警察官になったんだよね」
「……おう」
 目つきは分からないが、その口元が得意そうに笑った。きっと、萩原もスーツがよく似合うだろうと思う。大学の卒業式でも思ったが、ジャケットの似合う人だから。

 それから暫く黙っていた松田は、ようやくのこと無愛想に尋ねだした。
「……どのくらい行くんだ、向こう」
「どうかな。暫くは帰ってこないつもり……多分。いや、帰ってくるかも」
「ふは、どっちだよ」
 だって、帰ってこなかったら彼とした賭けに負けてしまうんだよなあ。そんなことを思い出して、笑った松田につられるように私も笑った。悔しい所だが、腕時計は取られたくないのだ。

「そうか……頑張れよ」

 ぽん、とやや乱雑な手つきが、私の頭に乗った。
 私のほうが年上だというのに――普段の松田を知っていたから、尚更それが可笑しくて、ちょっと笑いを堪えながら頷く。松田はそれに気づいたのか「笑うな」と歯を剥きだした。私が手を振って別れようとしたら、松田は掴んだ肩を引き寄せて、しっかりと私の背を抱きしめた。

 煙草の匂いがする。萩原と同じ、覚えのある香り。

 驚きはしたが、嫌ではなかった。父親が子どもを送るように、背中を少し強めに、バシバシと叩かれた。その手つきも、ちょっぴり冷えた温もりも、彼とは似ていなかったけれど、今まで不安に満ちていた心が少し和らいだ気がする。

「ったく、何で別れるんだよ、お前ら」
「……ごめん、心配してた?」
「誰がするか」

 すん、と隣から鼻を啜る音がした。
 ――してたな、これは。苦く笑って、私もその背中をトントンと叩いた。彼が彼のまま、真っすぐに生きていけると良い。そんな二人の姿に、私は憧れていたのだと思うから。

「……こっち帰ってきたら、貰ってやる」
「えぇ……。それ、多分萩原くんに怒られるよ」

 冗談だろうけど、冗談でも松田には容赦のない人だ。きっと眉を吊り上げて一発くらいは殴るかもしれない。それは勘弁願いたい。きっと「知るかよ」と拗ねたように言うと思ったら、彼は案外素直に聞き受けて、松田らしくなく小さく頷いた。


「――そうだな、ああ。きっとそうだ」

 
 擦れた声でそう笑うと、手が離れていく。
 大きな窓から差し込んだ日差しに、サングラスが反射した。私はちょっとだけ笑って、「じゃあ行くね」と手を振った。

「おー。親父に一発かませよ」
「かませないって……」

 声を上げて笑いながら、彼に背を向ける。――携帯を解約したのは、こちらに繋がるものを残しておいたら、縋ってしまいそうな気がしたからだった。番号も、もう残っていない。また会えるかも分からなかったけれど、不思議と寂しくはなかった。

 きっと、笑ったその背に見えた青空が、彼のシルエットとよく似合っていたからだろうと思う。




「みずき!」

 私を出迎えた母は、以前のやせ細っていた時よりは聊か顔色が戻ったろうか。相変わらず細い手足で私を抱きしめた。私によく似た表情で、少しだけ涙を零していた。
 なんとなく――だけど。少し冷静になって思えば、私と母は似ていたのかもしれない。顔もそうだが、母も、多分自分の感情を言葉で表現するのが不得手なのだ。今も涙をそっと拭いながら、「風邪を引いていない?」と冷静な素振りで尋ねていた。

 母と共にタクシーに乗り込み、父のいるという病院へ向かった。
 松田の声が頭を過ぎって、含み笑いをしてしまう。昨晩のことを考えれば、空港で松田に会えて良かったのかもしれない。少しだけ、リラックスできたような気がする。


 どんな顔をして会おうかな。どんなことを話そう。どうやって、これからを過ごそうか。

 少し指先を震えさせながら、病室の扉を開く。
 窓は空いていた。風が吹き込んで、私の髪を揺らす。
 記憶よりも、やっぱり削げた頬をしていた。細い指先に、窪んだ目。私は母に似ていたから、父に私と同じ面影はない――そう思っていたけれど、今見ると薄っぺらな耳の形がそっくりだった。

 彼も、多分何を言おうか分からなかったのだと思う。

 互いに視線が合って、でも、私が何も言わなくても叱りつけはしなかった。じっとこちらを見つめて、時折唇が開く。それを何度か繰り返して、ようやく彼は小さく言った。


「……みずき」


 呼ばれた瞬間に、彼が私の成績を褒めたときのことを思い返した。部活のトロフィーを眺めたとき、小論文が賞をとったとき。同じ声色だった。同じ――こんなにも、暖かな声だったのだろうか。
 記憶のなかと確かに同じなのだ。変わっていない。
 彼は、こんなに暖かくやわらかな声で、私を呼んでいたのか。気が付いていなかったのは、どうせ見てくれないと突っぱねていたのは、私なのか。

 情けなくて、下唇を巻き込むように噛みしめた。
 彼と話したい、でも、どうやって話したら良いのかは分からない。視線を合わせているのが辛くて、ふと下げたときに、キラっと何かが眩くて目を細めた。

 銀色の時計が、日差しを浴びて、瞬くように反射している。

 青い炎を思い出した。
 静かに燃える、小さな光りだった。

「……しかった」
『だあいじょうぶ』

 笑う声、穏やかな、低い声。
 雪を解かすみたいな、柔らかな笑顔に、ぐっと私の視線が踏みとどまる。もう一度だけ、父の方へ眼を向けた。


「さっ……さみし、かった……」


 震える声のまま、父の顔を見た。彼は叱りつけることもなく、もう一度だけ私を柔く呼んだ。私は彼の差し出された手のひらに向かって駆け寄った。大きいけれど、冷たい手のひら。掴んだら、急に寂しさがすべて溢れて、涙が出た。

 ――賭けは、私の負けかもしれない。
 ポケットからはらりと落ちたチケットを眺めて、涙を零しながら笑った。
 十一月八日 十二時発――。落ちたチケットはそのまま風に舞ってしまったのか、涙を拭った頃には見当たらなくなっていた。