エピローグ



 長時間の運転で疲労した腰を、ぐぐっと伸ばした。
 鍵を抜いて、上司から届いたメールを見直す。送られた住所には間違いなかった。まったくもって、人使いのあらいことだ。車を出ると、風が潮風の香りを運んだ。

 まだ少しばかり冷たい風だったが、日差しが空気を暖めて、寒くはなかった。波間を照らす日差しに目を細める。まあ、今回の遠征費は経費で落ちるらしいし。折角なら良い料理でも食べていこうかと考えた。

 海辺には殆ど人影はなく、穏やかな波が打ち付ける音だけが響いている。一応写真は受け取ったものの、特別目立つことのない普通の女性だ。果たしてパっと見て見つけられるかどうか。
 写真の中の、黒いショートヘアを眺めた。ずいぶんとクールな印象の女性だ。目つきはきゅっと吊り上がっていて、すらりとした首筋とシルバーのネックレス。さてどうしようかと頭を抱えていた最中だった。

 こんな季節に防波堤にただずむ影を見た。
 
 見る限り、釣り人でもなさそうだ。これは殆ど直感だったが、ああ、彼女だと思った。女性は防波堤に飛沫を上げる波を、じっと見つめていた。あんなところで、寒くはないのだろうか。
 とにもかくにも、無事に見つかって助かった。
 そのシルエットに向かって歩みを進めると、彼女も自分の方に気が付いたようだ。くるりと振り返ると、何やらパクパクと口を開けていた。波の音で聞こえない。
 少し早足に彼女に近づこうとした時、ふと視界が翳ったのが分かった。

「あ、危ないですよ!」

 と、ようやく彼女の声が聞こえて――。
 同時に、高く上がった飛沫が頭から降り注いだ。さすがに夏ではないので、水温はずいぶん冷たい。幸い掛かったのは頭周辺だけで、服は殆ど濡れなかったが、女性はパタパタとこちらに駆け寄った。

「大丈夫ですか? ハンカチ、使いますか」

 紛れもなく、写真の中の彼女だった。
 橘みずき――今回上司から頼まれた、おつかい(もとい、仕事)のターゲットだ。けれど、写真で見るよりもよっぽど表情は柔らかく、「お気遣いなく」と言うのにも関わらず自らのハンカチを差し出してくる。
 優しい人なのだと、一見で分かるほどだった。
 差し出されたハンカチで頬を拭って、彼女に頭を下げる。吊り上がった目つきがふにゃりと下がって「いえいえ」と笑った。伸びやかな笑顔だった。

「貴女こそ、こんなところで寒くは?」
「……ああ、いえ。ちょっと暖かくて、ボーっとしていたんです」

 ふにゃりと、その目じりが再び下がった。
 写真の印象とずいぶん違うものだから、なんだか腑抜けしながら、懐から封筒を取り出した。彼女は此方を見て首を傾げ、人差し指で自らを指して反対側に首を傾げた。頷けば、恐る恐ると言った風に封筒を受け取る。
「これを」
 ――それはそうか。見ず知らずの男に封筒を渡されて、怪しまないほうが可笑しい。
 本当は名乗ってから渡すつもりだったのだが、先ほどの一連ですっかり頭から抜けてしまっていた。
 慌てて警察手帳を取り出そうとしたとき、彼女が先に呟いた。


「……もしかして、警察の方ですか?」


 ばっと顔を上げると、どうやらその視線は宛名に注がれている。内容までは見ていないが、確か『萩原研二』と書かれていたか。こちらのスーツと、見比べているようだった。ゆっくりと頷き、今度こそ彼女に聞こえるよう、やや大き目の声量で名乗った。

「はい。警視庁公安部 風見裕也警部補です」
「……そうですか」

 ――女性は、それを聞いてゆったりと微笑んだ。
 そしてその手を手紙の封へと持って行ったときだ。びゅう、と目を閉じてしまうほどの強い風が吹いた。暖かい、生ぬるいような風。
 一瞬のことだったが、はっと目を開けたとき、先ほどまで女性の手にあった手紙が宙を舞っていた。慌てて手を伸ばしたが、届くことなくそれは波の狭間へと攫われていく。

「あっ」

 声を出したのは、自分の方だった。
 それを渡すことが今回の言いつけであったことへの使命感が半分、目の前の優しい女性が、慈しむように手紙に触れていたということへの良心が半分。それを見送るしかない橘の吊り上がった目つきを見て、慌ててテトラポットへ足を下ろそうとした。

「な、何してるんですか」
「拾いに行きます。大丈夫、まだ届く場所にありますから」
「いやいや! 無理ですよ、拾っても多分読めないですって」

 下へと降りようとする腕を、その細い指先がぐいぐいと引いた。
 いや、しかし――。と食い下がると、彼女は「良いから、危ないですって」と腕に込める力を強くした。

「申し訳ない、渡す場所を選ぶべきでした」
「……風見さん、でしたっけ。私がちゃんと持ってなかっただけなので、気にしないで」

 ふるふると、女性は首を振って、それから手紙が飛んで行った方を眺めた。やっぱり、気落ちしているだろうか。彼女に掛ける言葉に戸惑っていたら、黒色の細い髪束を耳に掛けて、彼女は笑った。

 言っておくが、別段他意はない。
 浮ついた気持ちは決してなく――ただ、純粋に綺麗だと感じた。その日差しを浴びて、ニっと歯を見せて笑う彼女が、あまりに自由で、伸びやかで。一種の羨ましさを感じるほど、綺麗だった。


「良いんです。本当に……書いてあることは、多分、分かってるから」


 そう笑うなり、彼女は手首につけていた銀色の時計を外し、思い切り海のほうへと投げ出した。青空の中に綺麗な放物線を描いて、時計はポチャンっと海に飛沫をあげて沈んだ。きっと手紙のほうに投げたかったのだろうが、コントロールは苦手なのか、だいぶズレた位置に落ちていった。それに、少しだけ笑ってしまった。

「……笑いました?」
「ンン、失礼」

 咳ばらいを一度。
 橘はそんな様子を揶揄うように、悪戯っぽく笑っていた。だいぶ潮が満ちてきて、彼女も帰ろうかと呟いたので、車で近くのホテルまで送ろうと提案した。

「いえ、ちょっと仕事の話があるんです」
「仕事――ですか」
「はい。まだまだ、母の手伝いなんですが」

 渡された情報では、確か彼女の母親は橘グループの――。
 そこまで思い出して、そういえば、前社長が先日亡くなったとニュースになっていたことを思い出した。最後に流れたニュースの画面に映る男は、以前テレビに出た若々しい姿の面影なく瘦せ細っていたのを記憶している。
 気の毒に、そう思い彼女を見るが、やはり彼女から人が亡くなったときの哀愁のようなものは感じられなかった。素性を知っていることを知られたら気味悪がるだろうし、それに関しては言及できないが。

 びゅう、と再び風が吹く。
 暖かいが、強い風。駐車場周りの木々が枝と枝をしならせてざわざわと音を立てた。
「今日は風が強いな……」
 ほとんど独り言に近かった。しかし、橘はその独り言に「そうですねえ」と間延びしたように頷く。

「春一番って言うんです。知ってます?」
「勿論。今日は温かくなりそうですね」
「はい。春が始まりますから」

 そう言うと、彼女は大きく伸びをして、青い空を見上げた。

「……本当に、春が来たなあ」
「――え?」
「手紙、ありがとうございました」

 女性は深々と丁寧に頭を下げて、踵を返した。不思議な女性だ。――いや、普通ともいうのか。きっと、この先ずっと、自分たちが守るべき善良な市民でしかないだろう。そう確信を持って言えるような人だった。どうかそのまま、あるべき道を進んでほしいものだ。


 くしゅん、と一つクシャミをする。ああ、この季節が来たなあと、改めて実感した。