02
――いやいやいや、マジで怒ってるじゃん。
目の前でニコニコと笑う表情を前に、心の奥は縮こまっていた。俺に与えられた役割は、今心をぐつぐつと煮えさせているであろう上司、降谷零の補助である。警察庁警備局警備企画課。二十代前半で就任した優秀な上司。その肩書に沿うように、写真で見たときよりもずっと華やかで綺麗な顔立ちをした男だった。
彼が怒りを滲ませる姿に、心当たりはある。
俺が貰ったスコッチ、というコードネームだ。俺が入った時には既に潜入していた捜査員なので顔見知りではないが、前にこの組織へ潜り込んでいた先輩のコードネームだったからだ。潜入中に殉職したとは薄っすら聞いていた。
警察庁と警視庁。立場は違えど同じ警察官から潜入捜査をしていた二人だ。同僚が死んだ悔しさややりきれなさは相当にあったことだろう。
「さあ、スコッチ。行きましょうか」
にこりと、後部座席の扉が開けられる。
わーいなんて零しながら、俺はその車に乗り込んだ。俺に向けられた一瞬の敵意など既に引っ込んでいて、さすが、エリートは違うと頭の中で感心する。散々しつこくしていた甲斐があり、ベルモットは頭を抱えながら俺たちを見送った。立ち去るスリットの奥に、少しばかり視線がいってしまったことは、降谷には黙っておこう。
「……さて」
「盗聴器の類なーし。カメラはあるので口は見せないでくださいね」
「ああ。降谷だ、よろしく」
「新井です。世話になります」
暫く車を走らせてから、降谷が切り出した。すっと出てきた手のひらを握ると、見た目よりもずっと冷たく冷えている。肌の色が、彼の体温を高く見せていたから。素の顔に戻った降谷は、バーボンの時のにこやかさを消して、つんとした表情をした。
――素っ気ねえ〜……。
直属の上司である風見から、愛想は良い方じゃないと聞いていたけれど。まあ、若いとはいえ警察官だ。警察学校の教官も、職場についてからの上官も、にこやかな人間の方が少ない。
やや膿んできたピアスホールを弄りながら、前の座席へ顔をだすようにして腕を凭れさせた。降谷のアイスグレーの瞳が、ジトっとこちらを一瞥した。
「慣れ慣れしいな」
「スコッチはこういうキャラなんす」
「……そうか」
まただ。また空気が僅かに揺れた。
しかし、コードネームは自分で選べるわけじゃない。そりゃあ、俺だって好き好んで前任者と同じ名前など使わない。胸糞が悪いじゃないか。好きな酒で良いならピュアモルトとかにしたかった。仕方ないとはいえ、それで気分悪くなられるのも勝手だよなあ。ぼんやりと考えながら、小さく欠伸を漏らした。
「今まで会った幹部は」
「ベルモットとカルヴァトスに一回ずつ。バーボンで全員。まだ昇進したてなんで」
「十分だな。最近幹部との接触も多くなって、自由に身動きがとりづらかったんだ。助かるよ」
ふ、と前を向きながら、彼の口角が僅かに持ち上がる。
その笑顔は、予想外だった。先ほどまでピリピリと「スコッチだぁ?」みたいな空気を感じさせていたくせに。俺はやや照れくさく思いながら鼻を掻く。そのうちに、降谷は再び澄ました顔を張り付けた。
「で……余談はここまでにしよう。今回の任務の詳細を頼む」
――俺はぴたりと止まった。
しまった、完全に俺のミスだった。散々口酸っぱく降谷の邪魔になるなと言われていたから、そのことばかりが頭を巡っていたのだ。
俺の僅かな強張りを、降谷は見逃さなかった。ぴくっと甘く垂れた目元が引きつるのが、横から見ていてよく分かる。
「お前……」
「わー、すみませんって! 俺朝型なんですよねぇ」
「朝だの夜だの関係あるか!」
「夜は眠くてボーっとしちゃうんですよ……っで、いでぇって!」
容赦なく頭をはたかれて、恨めし気に降谷を見上げた。
ベルモットのビンタの数十倍は痛い。あんなもの、今の拳骨に比べれば赤ん坊の手だ。その幼さの入り混じる顔つきから、誰があんな力を想像できるだろうか。鈍器だ。
「わっかりましたって……。ベルモットに電話しますから」
「同情するよ」
「どーも」
「ベルモットにだ」
えぇ、と俺は理不尽に声を上げる。俺だって頑張ってるんだけども。ちぇ、と軽く拗ねながら、覚えたてのナンバーに指を走らせる。5コールほど後に、聞くからに呆れたような声色が聞こえた。
『――Hi』
「あ、今回の任務のことなんだけどさ」
『ああ、それで揉めてたわけね。急にアクション劇が始まったからどうしたかと思った』
ちゃぱん、と水の音がする。やけに籠った声の反響。もしかして、入浴中なのだろうか。どうやらカメラの存在を隠すつもりはないらしく、ベルモットは悩まし気にため息をついた。
『このボーヤに言っても無駄みたいだから、バーボンに伝えるわ』
「えぇ、任務くらい覚えれますって」
『今忘れたじゃない。三回目はないわよ』
ぶつっと一方的に通話を切られた。そういうキャラで通したのは自分だが、これでも警察学校は次席で卒業したのだ。ただ、今回はちょっと気が抜けただけで――。なんて言えば、また拳骨が飛んでくるか。俺はおとなしく口を噤むことにする。
◇
「――というわけで」
仕切り直しと言うように、一瞬でその表情にバーボンが浮かんだ。任務の詳細を、これでもかというほどに事細かに説明される。とある情報の入ったマイクロチップの回収。所持する人物の生死は問わず。
「相手は単独。簡単な任務ですね」
「うんうん。バーボンがいれば負けなしでしょ、聞いてるぜ、成功率九割越え」
「光栄です。期待していますよ」
にこ、と愛想笑いを張り付けたバーボンが、俺の首根っこを掴んだ。へ、と移動される子猫のように目を瞬かせて、背後を振り向く。コイツ、片腕で俺のこと持ち上げてる。俺の方がデカいのに。
「僕は情報屋ですので、ちゃんとサポートはしますから」
「いやっ、それ俺の仕事……!」
「さ、お仕事ですよ」
ぽいっとターゲットのいるマンションのエントランスへ蹴りだされる。自動ドアの狭間から、「忘れていました」と、通信用のイヤフォンを放られた。さっさかと背中を向けていく上司に、マジかと俺は呆然としてしまう。
幹部になって初めての任務だぞ、失敗したら最悪降格――ならまだ良いほうだ。俺が潜入しているのは闇組織だ。使えるやつには使える仕事を、使えない奴には使えない仕事が回るようにできている。下っ端の、使えない奴の仕事なんて悲惨なものだ。時にはボディーガードなどと称してただの壁にされたり、金やブツだけ奪わせて口封じに殺すこともザラである。
そこは先に潜入した上司として、懇切丁寧に説明していけよ!
ぐぐ、と小さく拳を握る。なんだ、やっぱり俺が任務内容すら覚えられないポンコツだから呆れているのか。それとも、俺のコードネームのせいか。
どちらにせよ、このまま舐められているのは柄じゃなかった。俺の優秀さを知らしめて、ぜひ協力してくださいと頭を下げさせなければならない。
「っし……。見てろよ、バーボン」
ホームラン予告のように、恐らくどこかから監視しているであろうエントラスの外を睨みつけた。あわよくば――。もう一度、先ほどのように、ふっと零れるような笑みを浮かべてはくれないだろうか。そんな風に笑われたら、俺も悪い気がしないのだけど。
フン、と軽く鼻を鳴らして、俺は気持ちのスイッチを入れる。
今回の任務は、一つ――しかし、俺たち潜入捜査員には、もう一つ付属のミッションがある。それは、ターゲットが死なないようにすること。できれば見つからないように、顔を見られれば組織からは殺せという命令が下るはずだ。最悪の場合、なんとかバーボンに連絡を取りターゲットの存在を揉み消さなくてはいけない。
「まさかね。そんなの補佐失格でしょうよ」
ニヤリと笑った俺をどこから見ているのか、つけたイヤフォンから『へらへらするな』と手厳しい台詞が飛んできた。
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Shhh...