04
「あの鬼上司!! 社畜の敵!」
ジョッキを握りながら手を震わせると、それを宥めるように名前を呼ばれた。元公安の店主が運営する居酒屋は、俺たち潜入捜査員にとって数少ない安心できる公共の場だ。もちろん油断は大敵と言えるが、そういう場にくると多少なりと口が緩くなるのは確かである。
目の前にいる、見るからにやや神経質そうな男――風見裕也は、俺の直属の上司である。俺が公安に配属されてからの、一連の教育係でもある。彼は潜入捜査員ではないものの、以前から降谷のサポートをしていた存在だ。組織の事情にも詳しかった。
「そう言ってやるな。考えなしに厭味を向けてくる人じゃない」
「どーですかねえ。ファーストコンタクトからクッソ殺意ばりばりでしたけど」
俺はふてぶてしくテーブルに頬杖をつき、ケっと口を歪めた。風見は相変わらず小難しいことを考えていそうな眉間の皺を深くして、ふうと重くため息をつくだけだった。
いや、だってパワハラじゃないか。
人が折角手に入れた初任務の成果を、比喩なしでタイヤの下敷きにするなんて。風見はお前の実力を測りたかったんじゃないかとか、あの人なりに考えがあるんだとか聞こえが良いことを言うけれど、知ったことじゃない。
俺にとっては、されたことが全てである。そんなに耐え性がある性格でも無し、あんな厭味に言われたら腹が立つのは当然だ。
言っておくが、別に所見から彼を嫌っていたわけじゃない。
書類で見た姿よりも背筋が伸びた立ち姿に、寧ろそれなりに好感を持っていた。顔立ちが整っていることは知っていたけれど、予想していたよりずっと凜と涼やかな人だと思った。
冷静で頭も良く、愛想笑いではない、零れたような笑みは今でも脳裏に残っているほど印象的だ。あの笑顔を見たとき、上手くやっていけるかもと思ったのだ。
潜入捜査員として訓練を受け、外から組織に接触することは容易ではない。足がかりを得ては身元を隠すために手放し、また得ては手放し。潜入できれば、次は上の目に留まるような働きをしなければならなかった。
その苦労を知っている――だからこそ、同じく苦労を共にした上司とならば、共有できるものもあると思い込んでいた。
だからこそ、やり場なく悔しい。
どうしてあんな厭味なことをされたのか、その意味が分からないのも悶々とする。風見が降谷を庇うのが、果たして上司だからなのか、それとも彼には俺の知らない何かが分かっているのか――。どちらにせよ、俺としては良い気分がしなかった。
「兎に角、まだ会ったばかりだろう? 無理せずに話していけば良いさ」
「えぇ〜、風見さん、俺のこと可愛くないんすか」
「可愛くはないな、まったく」
苦笑いまじりに手に持った日本酒を呷った風見に、俺は軽く口を尖らせた。まったく、教育された身としてこんなにもやり甲斐がないことってあるだろうか。ここはひとつ、「そんなふざけた上司許さん」と拳を握ってもらいたいところだ。(――そんな風見の姿を見たら、俺のほうが泡を吹きそうだけど。たぶん天地が引っ繰り返ってもあり得ない。)
「そんなに良い人だったんですか、前の……その。前任者って」
確か降谷とさして齢が変わらない男だったと聞く。詳しい情報は知らないし、時折組織の中で公安の犬だと揶揄られているのを聞くくらいだ。俺が尋ねると、風見は一瞬眼鏡の奥の表情を強張らせた。
そして、猪口の中の酒に口をつけてから、酒の匂いが移った息をフウー、と長く吐く。
「風見さん、それはちょっと親父くさすぎ……」
「お前、上司に向かって……同じような口聞いてないだろうな」
「どーかなあ」
少し悪戯っぽくニヤニヤとしたら、拳骨を飛ばすような勢いで平手が頭を叩いた。警察官にしては細身なほうだが、その長い腕が勢いづくと、これが中々効くのだ。脳みそが頭の中でぐらぐらと揺れるのを感じながら、俺は叩かれた場所を摩った。
「でも、そうだな。良い奴だったよ」
風見は、それだけ言って僅かに口元を緩ませた。彼は仕事人間と言う称号は相応しいような男で、仕事以外のことで人を評価するのを聞いた事がなかった。そんな風見が、良い奴だという。それは仕事が、ではなく、人柄が、ということだろう。
「てか、なんで俺は情報見たら駄目なんです?」
「人間、知った情報だとどうしてもボロがでやすい。知らなきゃ反応を返しようもないだろう。……お前は本来、知るはずがない人間なんだから」
「なるほどね」
「――と、降谷さんからの指示だ」
俺は納得して頷いていた顔をズルっと落ち込ませた。真面目なくせして、そういうところだけボケをかまさないでほしい。――いや、今の間は天然か。
「新井。たぶん、あの人はお前を嫌っているわけじゃないよ」
「……言いますけどねえ」
大きくため息をつく。そうこう愚痴を零しているうちに、焼き鳥がテーブルに運ばれた。俺は鳥皮の感触を楽しみながら、肘をついてテレビを見上げた。今日の昼頃にあった、交通事故のニュースが流れている。
そのニュースを見とめたらしい風見が、ふと俺のほうを気遣わし気に見た。
「そういえば、もうすぐだろう。大丈夫か?」
「あー、いや。良いんです、もう昔のことで、最近はただの法事って感じだし」
「なら良いが……実家はリスクが大きいからな」
くいっと眼鏡の位置を直して、彼は少し気まずそうに言う。大丈夫っすとヘラヘラ笑った。身内の十回忌だが、他に親族もいないのだ。俺の気持ちの中だけで、十分だと思った。外の冷えた空気に、窓が曇っている。俺はそれを眺めながら、少しだけ昔を思い返しながら、もう一杯ビールを頼んだ。
冷えた夜は、好きじゃない。
なんだか固い感じがするから。冷え切ったアスファルト、窓ガラス。吸い込んだ空気もどこか棘が生えているような。吹きすさぶ風は、容赦なく頬を平手で打っていくし、吐いた息が間抜けな排気ガスみたいに宙に消えるのも嫌いだ。
風見と別れを告げて、マンションへ向かう足取りが重たくなった。俺のものではない名義で借りられたマンション、俺のものではない表札。外気に晒されて、冷たくなったドアノブ。
冷えた夜には、孤独が膨らむ。
もともと一人が嫌いなわけじゃない。マイペースだし、一人遊びだって好きだ。だけれど、冬の夜中は、それを強調させるから嫌なのだ。ほら見ろ。お前は一人だ。隣で温める人など誰もいないのだと笑われている気持ちになるのだ。
「……帰るかあ」
細い三日月を見上げて、ぼんやりと足取りを進めた。
分かっている。降谷に腹が立ったのは、裏切られた気持ちになったからだということ。一人なのは俺だけではないと信じた一方的な信頼が断ち切られたからだということ。それが、すべて俺の思い込みだということも、知っている。
マンションのエントランスは、今が夜だということも忘れるような眩い灯りに照らされていた。集る羽虫を手で追い払ってオレンジがかったランプを潜ると、つい先ほどまで噂をしていた姿がそこに背筋をピンと伸ばして立っていた。俺はつい声を失う。一瞬の動揺を隠すように、ヘラっと笑った。
「なになに、どうしたの」
すぐさま取り繕ったのはスコッチの姿だった。一応セーフティハウスとして借りた物件だが、監視カメラや周囲の確認はできていない。
褐色の鼻先は赤く、息を吐くと白くけぶった。なぜかは分からないが、その吐息は自分のものより暖かみを持って見える。彼はブロンドをぐっと掻き上げるようにしてから、形の良い眉を和らげて笑った。
「どうも。丁度良かった」
彼は軽く会釈をしてから、ニコリと人の好い顔で笑った。バーボンの表情だった。やっぱり、判断は間違っていなかったらしい。ホっと内心胸を撫でおろしてから、彼がずいっと差し出してきたものに視線を落とす。
「……なにこれ」
「今回の報酬ですよ。お疲れさまでした」
「報酬……」
なんだ、それ。確かに組織内で金のやりとりをすることもあるが、今回はそんな話を聞いていない。幹部としての実力を試すものだと聞いていた。俺はまた何か忘れた言葉があっただろうかと、考えながら安っぽいビニール袋を受け取った。思いのほか重みがある。降谷を見ればアイスグレーの瞳がニコっと笑うので、俺は怪訝に思いながらその中を覗いた。
そして、アッと一瞬声を漏らしかける。
酒とツマミが数種類。すぐにわかった、これはバーボンとしてのものではない。
「な、なんだよ〜……。緊張させやがって……」
「はは、悪かったよ」
降谷は、軽く肩を竦める。太めの眉がクイっと悪戯に持ち上がった。彼はそれ以上何を言うでもなく、俺の肩を軽く叩き、エントランスを出ていった。部屋に戻って、そのビニールの中身をひっくり返す。スルメとカルパス、ピーナッツに梅干し。
「結構、チョイス親父くさいなあ」
洒落た見た目してるのに。なんて呟いた心の隙間は、冷えた夜にしては少しだけ埋まっていたような気もする。
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Shhh...