間違えないで


「……おはよう、なまえ」

彼がこんなにも穏やかに挨拶をするのは、ひょっとすると彼女の前でのみかもしれない。驚かせないよう、後ろからそっと声をかけ、椅子に腰かけたままの彼女の肩に手を置く。ふわりと髪にキスをして、彼は彼女の前に移動した。

「英智さん?」
「うん、正解」
「おはようございます。……今日は学校、お休みなの?」
「いや、午前中で終わったんだ。せっかくだから君に会いたくて」

彼女の膝の上に乗せられたちいさな手を、彼の手が優しく包み込む。彼の目は彼女の目を見つめている。包帯に覆われた彼女の目が彼を映すことはない。

「お忙しいでしょう。……もう許嫁でもないんですから、来なくっても……」
「ううん。許嫁でなくなっても、大事な人が弱っているならそばにいたいんだ。……それとも、僕が来るのは嫌?」

彼女は静かに微笑みながら、彼の言葉に首を振る。彼女は元々、彼の友人である天祥院英智の許嫁だった。それをどこから知ったのか、英智のファンが彼女を妬み、襲い、結果目を深く傷付けられ失明してしまった。

彼──日々樹渉は、英智から彼女の話をよく聞いていた。事件があったあと、英智は断腸の思いで婚約を解消した。自分のせいで傷付けてしまいたくないと言って。自分では彼女を幸せに出来ないと言って。

彼女と何度か会ったことのある渉は、英智にも彼女にも深く同情し、それならばと彼女に会いに行ったのだ。

事件の後、彼女に初めて会いに行った時、彼女は見えないまま彼に手を伸ばし、英智の名前を呼んだ。

「英智さん、見捨てないで、お願い」

光を失った彼女が求めたのは、最愛の元婚約者だったのだ。求められれば応えるのが演者だ。少なくとも渉はそういう人間だった。

「大丈夫、そばにいるよ」

声帯模写で、彼は天祥院英智を演じ続ける。終わりは未だ見えない。けれど、きっと歩き続ければ幸福な終幕を迎えられると信じている。

「やっぱり、私の目、もう見えないそうなんです」
「……そっか。痛くはない?」
「はい。平気です。……あの、ずっと、言おうと思っていたんですけど。……聞いてくれますか」

彼女の手が、彼の手を握り返す。彼は見えないのに笑顔をつくってみせた。

「勿論。どうしたのかな」
「…………ごめんなさい。ずっと謝りたかったの。あの時、貴方が初めて来てくれたとき……私が英智さんを呼んでしまったから、不安で何度も泣いていたから、貴方に嘘をつかせてしまった」

彼女の言葉に、彼は思わず呼吸を忘れる。先程まで纏っていた仮面も鎧も、全て剥ぎ取られ暴かれてしまうようだった。

「目が見えないと、他が前よりずっとよく働くんです。……どれだけ声音を似せていても、貴方の匂いも、温度も、英智さんじゃない。でも、私が一番悲しいのは、貴方が英智さんじゃないことじゃなくて……こんなにも寄り添ってくれた貴方の名前も顔も、私にはわからないこと。……名前を教えてくれませんか?」

彼は生唾を呑んで、普段通りに声帯を震わせる。天祥院英智ではなく、自らの、ありのままの声で、自分の名前を口にした。

「日々樹渉です。……騙していてすみません」
「日々樹……渉さん?貴方だったんですね。ね、お顔に触ってもいい?もう間違えたくないから、覚えさせてください」

彼女が宙に手を伸ばすと、彼はその手を取って自分の顔に触れさせる。

「渉さん」

彼女の親指が彼の唇に触れると、彼女は身を乗り出して彼にキスをした。少し唇からはズレて、不格好なキスだった。彼は咄嗟に彼女を抱き寄せ、自分からもう一度キスをし直す。

「…………貴方の顔、ちゃんと見たかったなぁ……」

噛み締めるようにそう零した彼女に、彼は胸を締め付けられる。細い体を強く抱き締め、視界を補うように全身で彼女を包み込んだ。

「肌を、指先を、耳を、舌を、貴女の全てを私で満たさせてください。……今度はちゃんと、日々樹渉で。私も間違えませんから」
「……うん。ありがとう、渉さん。本当に……ありがとうございます」


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