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中立神域を満たす空気は、常に凪いでいる。 神々の不可侵条約によって守られたその場所は、いかなる破壊的な権能行使も禁じられていた。だが、神々の意思そのものまで縛ることはできない。
セレスの薬草室は、その神域の一角にありながら、彼が仕える神ゾーエの聖域「原初の庭」の気配を色濃く纏っていた。生命の息吹と、それを精密に管理する理性の匂い。無数の瓶が整然と並ぶ机に向かい、セレスは乳鉢を静かにすり潰していた。
その静寂を破ったのは、遠慮がちな、しかし好奇心に満ちた声だった。
「こんにちは、セレスさん。……今、お邪魔でしたか?」
セレスは手を止め、ゆっくりと振り返る。そこには、パトスの騎士、向日葵が立っていた。艶やかな黒髪、くりっとした大きな目。神々にさえ可愛がられる、危ういほどの純粋さを放つ少女。
「おや。これは珍しい小鳥が迷い込んできた」 セレスはいつものように、柔らかい微笑みを浮かべる。その薄紫の瞳が、面白そうに彼女を射抜いた。
「俺の仕事場は退屈だと思うが。それとも、どこか具合でも悪いのかい? 君の神様が、また無茶な脚本でも書いたかな」
「ううん、そういうわけじゃなくて」
向日葵は首を横に振ると、警戒心なく部屋に入ってきた。「いつも、ここからいい匂いがするから。なんだか眠くなっちゃうような、優しい匂い」
彼女は恐れることなく、セレスが調合していた薬草の入った器に顔を近づけた。
「わあ、綺麗。これは何ですか?」
「鎮静作用のある薬草だ。……ああ、あまり吸い込みすぎない方がいい。本当に眠ってしまうよ、子猫」
セレスはそう揶揄いながらも、彼女を止める手はどこか優しい。彼は知っていた。この少女が、神々のルールさえ無自覚に超えてしまう稀有な存在であることを。彼女の好奇心は、リミナスが引いた「境界」すら曖昧にする。
「セレスさんの手って、魔法みたいですね」
向日葵は、薬草を扱う彼の指先を無邪気に見つめた。
「パトスさまが言っていました。セレスさんの手は、命の終わりも見つめてきた手だって」
セレスの微笑みが、ほんの一瞬、凍った。 彼の脳裏を、いつもと同じ記憶がよぎる。救えなかった命の感触。理性で塗り固めた仮面の下に沈めた、自己否定の澱。
「……君の神様は、お喋りが過ぎるようだ」
セレスは目を伏せ、わざと色気を含んだ声色を作った。
「俺の手は、ただ癒やすだけじゃない。時には、君のような無垢な花を摘んでしまうかもしれない。……怖いとは思わないのか?」
それは、彼なりの警告であり、彼自身の最大の自己防衛だった。愛を与え、触れることはできても、受け入れることはできない。だから彼は、恋を遊びとしてしか扱えない。

だが、向日葵は、不思議そうに首を傾げただけだった。
「怖い? どうしてです? セレスさんは、優しいですよ」
彼女の答えは、あまりにも真っ直ぐだった。
「それに、私、寝るのが大好きなんです。セレスさんの薬草の匂い、なんだか安心します。……あ、そうだ。今度、私のフクロウたちにも会ってくれませんか? みんな丸くて、可愛いんですよ!」

セレスは、その無防備な輝きに、思わず息を詰めた。 この少女は、彼がどれほど深い場所に仮面を隠しているかを知らない。知らずに、その境界線を軽々と踏み越えてくる。

「……ふふ」
やがて、セレスはいつもの余裕を取り戻した。彼はそっと立ち上がり、向日葵の額に軽く指を触れさせた。
「君は、本当に面白い。だが、あまり俺の領域に長居するものではないよ。君の純粋さは、パトス様の『芸術』にはなっても、俺の『理性』には毒だ」
「どく?」
「さあ、お帰り。子猫。夜更かしは美容の敵だ。君のその白い肌が、くすんでしまう」
セレスは優雅な仕草で彼女を扉へと促す。向日葵はまだ何か言いたそうにしていたが、「それじゃあ、また来ますね!」と明るく手を振り、去っていった。
一人残された薬草室で、セレスは自分の指先を見つめた。 触れた瞬間に脈と心を読もうとする癖。だが、彼女から読み取れたのは、ただ温かく、どこまでも無垢な好奇心だけだった。

「……救われる価値などない、か」 彼は静かに呟き、再び乳鉢を手に取った。 その微笑みは、もう誰にも真意を掴ませない、完璧な仮面に戻っていた。