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夜更けの中立神域は、昼間の凪いだ空気とは異なり、どこか息を潜めたような静寂に満ちていた。 向日葵は、自室のベッドの寝心地を何度か確かめた後、結局眠るのを諦めてそっと部屋を抜け出した。彼女は夜更かしが多く、時折こうして神域を散策する。

ふと、セレスの薬草室の扉から、淡い光が漏れているのに気づいた。
(まだ、起きてるんだ)
好奇心が、彼女の足をそちらへ向かわせる。遠慮がちに扉を叩くと、内側から「……どうぞ」という、常の彼より少しだけ抑揚のない声が返ってきた。

「こんばんは、セレスさん。……まだ、お仕事ですか?」
部屋に入ると、薬草の香りの中に、微かに酒の匂いが混じっていた。セレスは机に向かうのではなく、窓辺の椅子に深く腰掛け、グラスを傾けていた。いつもの完璧に整えられた服装ではなく、少し着崩したシャツ姿が、妙に生々しい。

「おや。こんな夜更けに、迷える小鳥か」
セレスは顔を上げ、薄紫の瞳を細めた。その笑みは完璧だったが、声には僅かな疲労が滲んでいる。
「君こそ、寝台が気に入らないのか? それとも、君の神様がまた、眠れなくなるような『感動』でもお望みで?」

「ううん、ただ……眠れなくて。セレスさんのところなら、静かかなって」
向日葵は彼の隣に歩み寄る。セレスは彼女を止めもせず、ただ静かに見上げていた。
「……少し、お酒の匂いがしますね」
「ああ。眠れないのは、どうやら俺も同じらしい」

セレスは自嘲するように笑い、グラスに残っていた液体を一気に呷った。 普段の彼ならば、ここから巧みな言葉で彼女を揶揄い、その反応を楽しんだはずだ。だが今夜の彼は、どこか違う。

「君は、」とセレスが口を開いた。
「俺が怖いとは思わないのか?」
「え?」
「俺の手は、人を癒やす。だが、その同じ手で、救えなかった命を幾度も看取ってきた。……命の終わりばかりを見つめてきた男だ。君のような、生命の輝きそのものみたいな存在とは、正反対だ」

それは、彼の本質に触れる言葉だった。他人を救うことに価値を感じながら、自分自身は救われる価値がないと信じる男の、自己防衛。彼は今、自ら棘を差し出している。この純粋な少女が、怯えて離れていくことを期待して。

だが、向日葵は怯えなかった。 彼女はただ、じっとセレスの瞳を見つめ返し、それから、ふわりと笑った。
「セレスさんは、優しいですよ」
「……まだ、そんなことを言うのか」
「だって、今もそうだから」 向日葵は、セレスの隣にためらいなくしゃがみ込むと、彼の手にそっと自分の手を重ねた。

「!」
セレスの肩が、硬直した。 彼は愛を与え、触れ、癒やすことはできても、受け入れることができない。無防備な温もりが、彼の張り巡らせた理性の壁を、いともたやすく溶かしていく。

「君の……手は、温かいな」
セレスは、重ねられた小さな手を振り払うことができなかった。
「セレスさんの手は、少し冷たいです」
向日葵は、まるで冷えた小動物を温めるかのように、彼の手を両手で包み込んだ。
「でも、知ってます。その手で、いつもお薬を作ってくれるでしょう? ダリアンさんの傷の手当もしてました。エルドさんのほつれたマントを、こっそり直してあげてるのも見ましたよ」

「……余計な、お世話だ」
セレスは顔を背け、絞り出すように言った。その耳が、微かに赤らんでいるのを、向日葵は見逃さなかった。
「ふふ。セレスさん、照れてますか?」
「……からかうな、子猫」

その声は、いつもの余裕のある響きではなく、拗ねた子供のように低く、掠れていた。 向日葵の無垢な好奇心は、神々のルールだけでなく、セレスが何重にも施した心の錠前さえも、無自覚にこじ開けてしまう。

セレスは観念したように息を吐き、ようやく彼女に向き直った。 その中性的な美貌には、もはや揶揄うような笑みはなく、ただ、どうしようもなく戸惑ったような、素顔の青年がいた。

「……君は、本当に厄介だ」
「厄介、ですか?」
「ああ」
セレスはそう言うと、今度は自らの手で、包み返されるようにそっと向日葵の手に指を絡めた。
「君のその無垢さが、俺の秩序を狂わせる。……パトス様は、本当に残酷な『芸術』を創り出したものだ」

それは、セレスなりの最大の賛辞であり、降伏の言葉だった。 薬草と微かな酒の香りの中、二人の指先だけが、不可侵の神域で許された唯一の権能のように、静かに熱を交わしていた。