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あの日以来、セレスは向日葵を巧妙に避けるようになっていた。

彼が騎士団の拠点である「中立神域」で最も多くの時間を過ごすのは、元より自室でもある薬草室だ。だが以前なら、共有の談話室に顔を出し、他の騎士たちの様子を面白そうに眺めていることも少なくなかった。 しかし、あの夜、向日葵に「怖がり」と本質を突かれてから、彼は変わった。

談話室に向日葵の気配を感じると、彼は用事を思い出したかのように踵を返す。廊下ですれ違いそうになれば、リミナスの聖域に用があると言わんばかりに別の通路を選ぶ。 その態度はあまりに自然で、他の騎士たちは気づかないかもしれない。だが、向けられている向日葵本人と、そして神域一の観察眼を持つセレス自身には、その「意識的な回避」は明白だった。

その日、向日葵は愛用のベッド(寝心地にはうるさい彼女がこだわって整えたものだ)からようやく起き出し、自慢のフクロウたち三羽を連れて談話室を訪れた。 そこには先客がいた。

「やあ、ヒマワリ。今日はゆっくりなんだね」
柔らかな声の主はエルドだった。彼は大きな体をしなやかに折り曲げ、窓辺の光だまりで裁縫をしている。竜騎士の異名を持つ彼の手が、繊細な針仕事にいそしむ姿は、神域の名物の一つだった。
「こんにちは、エルドさん! わ、また新しい刺繍ですか? 可愛いです」
「でしょ? この前、任務で行った世界で見つけた糸なんだ。ふわふわしてて」

二人が和やかに笑い合っていると、談話室の扉が静かに開いた。 セレスだった。 彼は薬草茶を淹れに来たのだろう、手には空のポットを持っている。室内にいる二人(と三羽)を認めた瞬間、彼の足がコンマ数秒、ためらうように止まった。

エルドが鷹揚に手を振る。
「やあ、セレス。お疲れ様」
向日葵も、避けられていることなどまるで気づいていないかのように(あるいは、気づいていないふりをして)、無邪気な笑顔を向けた。
「セレスさん、こんにちは!」

「…………ああ」
セレスは、短く応えた。 いつもの
「おや、小鳥」
というような揶揄いも、余裕のある笑みもない。彼は努めて無表情に、足早に湯を沸かす準備を始めた。その横顔は、まるで精巧な仮面のように感情を拒絶している。

向日葵は、そんなセレスの様子を、好奇心に満ちた瞳でじっと見つめていた。
(やっぱり、変)
あの夜の、戸惑ったような、傷ついたような素顔。そして今の、あからさまな拒絶。

その時、向日葵の肩にいたフクロウの一羽が、好奇心に負けたらしい。丸い翼を小さく羽ばたかせると、セレスが棚に並べている薬草の瓶の列に向かって、ふわりと飛んだ。

「あ、こら! だめ!」
向日葵が声を上げるより早く、セレスが反応した。

「触るな!!」

彼の声は、彼自身が驚くほど冷たく、鋭く響き渡った。 それは本能的な拒絶だった。自分の領域――薬草室だけでなく、彼が「理性」と呼ぶ内面――に、あの夜のように踏み込まれることへの、過剰な防衛反応。 フクロウは甲高い声に驚き、慌てて向きを変えると、弾かれたように向日葵の腕の中に戻ってきた。

談話室が、気まずい沈黙に包まれる。 エルドが、そのしなやかな体躯に似合わぬ苦笑いを浮かべ、裁縫の手を止めた。
「おっと……。すまないねセレス、驚かせたみたいだ。こら、君たちも大人しくしてなきゃダメだろ?」

セレスは、自分の過剰な反応に内心で舌打ちした。 あの夜以来、彼の完璧なはずの仮面は、この少女の前でだけ、いともたやすく剥がれ落ちそうになる。 「……いや、すまない」
彼は無理やりいつもの声色を作り、息を吐いた。「大事な薬草でね。……驚かせたな、子猫」

「子猫」と呼ぶ声は、いつものように甘く揶揄う響きではなく、ひどく乾いていた。 彼は沸いた湯をポットに注ぐと、向日葵の顔を正視できないまま、足早に部屋を出て行こうとした。

「セレスさん!」

向日葵が、彼の背中を呼び止めた。 セレスは扉の前で足を止める。だが、振り返らない。

「私、何かしましたか?」
彼女の声は、非難ではなく、ただ純粋な疑問に満ちていた。
「セレスさん、この前も……なんだか怒ってるみたいでした。私、セレスさんのこと、怒らせたいわけじゃ、ないです」

その真っ直ぐな言葉が、セレスの背中に突き刺さる。 彼は、ゾーエの騎士として、生命の理性を司る者として、感情に流される自分を許せない。ましてや、こんなにも無垢な好奇心に、自分の内なる矛盾をかき乱されることなど。

セレスは、深く息を吸った。
「……君は、何もしていない」
彼は、振り返らないまま、それだけを絞り出した。
「問題があるのは、君ではない。……俺の、方だ」

それだけ言うと、彼は今度こそ扉を開け、逃げるように去っていった。

残された談話室で、向日葵はきょとんとして首を傾げた。
「セレスさん、やっぱり変……」
エルドは、やれやれという顔で空を見つめると、再び裁縫道具に手を戻した。
「あーあ。不器用だなぁ、あの男は」
「不器用?」
「君のその『無邪気』はね、ヒマワリ。彼にはちょっと強すぎる薬だったみたいだ。……さて、この刺繍、続きをやらなくちゃ」

エルドの言葉の意味が完全には分からなかったが、向日葵の好奇心は、今や明確にセレスという難解な「本」に向けられていた。 (セレスさんの『問題』って、なんだろう?) 彼女の純粋な探究心は、彼がどれほど厚い仮面で隠そうとも、その真実を暴くまで止まらないだろうと、エルドだけは予感していた。