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薬草室を飛び出した向日葵は、自室に転がり込むと、そのままベッドに突っ伏した。 心臓が、痛いほど速く脈打っていた。 セレスの、あの叫び声が耳から離れない。
あれは怒りではなかった。 仮面を剥がされた獣が、身を守るために必死で上げる、悲鳴のような拒絶。
(私、ひどいことを言った……)
彼女の無垢な好奇心は、神々の定めた境界すら無自覚に越える。だが今、彼女は初めて、自分のその性質が、誰かを深く傷つけたと自覚した。

「……どうしよう」
ベッドの傍らにいた丸いフクロウたちが、主の異変を察して、心配そうに喉を鳴らす。
「私、ただ、知りたかっただけなのに……」
「迷子みたいだ
」なんて、どうしてあんな言葉が出てきたのだろう。 でも、そう見えたのだ。 誰よりも大人びて、すべてを見透かすような瞳の奥に、たった一人で立ち尽くす、途方に暮れた子供の姿が。

その日を境に、中立神域の空気は目に見えてぎこちなくなった。 セレスは、完全に姿を消した。 薬草室に篭り、食事も自室で済ませているらしい。彼が仕える神ゾーエへの定期報告、という大義名分を盾に、誰との接触も断っていた。

向日葵も、彼女らしくなく塞ぎ込んでいた。 あれほど寝心地にこだわっていたベッドでも眠りが浅くなり、談話室に顔は出すものの、どこか上の空。 その様子を、二人の騎士が静かに見守っていた。

「……こりゃ、重症だな」
談話室で裁縫道具を広げていたエルドが、ふと呟く。
「何がだ」
鎧の手入れをしていたダリアンが、短く返す。
「セレスとヒマワリだよ。あからさますぎるでしょ、あの二人」
「……秩序の乱れは、好ましくない」
ダリアンの赤い髪が、手入れ用の油を弾く。
「だが、神ならぬ俺たちが介入すべきことか?」
「神様が作った『ルール』より、仲間が泣きそうな顔してる方が、俺は気になるけどね」
エルドはそう言うと、ふと窓の外で立ち尽くす向日葵の姿を認め、裁縫道具を置いて立ち上がった。

向日葵は、また薬草室の扉の前に来ていた。 だが、あの夜のようにノックする勇気も、扉を開ける度胸もない。
(セレスさん、怒ってる……)
(私、もう、話しかけちゃいけないのかも……)
彼女の「自由」な好奇心は、今や「拒絶されること」への怯えによって、内側から縛られていた。

「そんな所で門番してても、彼は出てこないと思うよ」
背後からのんびりとした声がして、向日葵はビクッと肩を震わせた。
「エルドさん……」
「やあ。……さて、どうしたもんかね」
エルドは、困ったように金色の髪をかきながら、硬く閉ざされた薬草室の扉を見やった。
「私……セレスさんを、怒らせて……」
「怒らせた、っていうか……『壊しちゃった』んじゃない?」
「えっ」
「彼はね、ヒマワリ。自分を『完璧な医者』で『余裕のある大人』だって仮面で、がっちがちに固めてるんだ。君は、その一番大事な仮面を、無自覚にひび割れさせた。……そりゃ、怖くもなるさ」

エルドの言葉は、いつも通り柔らかく、人を疑わない響きを持っていた。
「でも、」
向日葵は俯いた。
「でも、私は……ただ……」
「うん、分かってるよ」
エルドは、大きな手でわしわしと彼女の頭を撫でた。
「君は、彼を傷つけたいわけじゃない。ただ、彼が『痛そう』だから、気になるんだろ?」
「!」
向日葵は、はっと顔を上げた。 そうだ。 あの夜、彼が浮かべた痛々しいほどの素顔。
(怖がらせたかったんじゃない) (私はただ……)

「セレスさん!」
向日葵は、衝動的に扉を叩いた。
「セレスさん、私です! 開けてください!」
室内からは、何の物音も返ってこない。
「セレスさん! この前のこと、謝りたくて……!」
ドン、ドン、と扉を叩く。 だが、扉は沈黙したままだった。

「……ダメだ、ヒマワリ。彼はああなったら――」
エルドが止めようとした、その時。

向日葵は、叩くのをやめた。 そして、その硬い木の扉に、そっと手のひらを当てた。 彼女の脳裏にあるのは、ただ一つの純粋な願い。
(会いたい。話がしたい。彼が痛そうだから、放っておけない)

彼女の特殊能力。 神の「扉」を介さず、世界を行き来できる稀有な力。 それは、リミナスが定めた「境界」そのものを無効化する力。 彼女は、それがタブーであることを知っている。 だが、今の彼女の「感情」は、そのタブーさえも凌駕していた。

カチリ。

まるで最初から鍵などかかっていなかったかのように、小さな音を立てて、錠が開いた。

「え……」
エルドが息をのむ。 向日葵は、その結果に驚くでもなく、当然のように扉を押し開けた。

薬草室は、薄暗かった。 すべての窓のカーテンが閉め切られ、空気がよどんでいる。 いつもの整然とした理性的な香りは影を潜め、埃と、飲み干された酒瓶の匂いが混じっていた。

セレスは、そこにいた。 机ではなく、窓辺の椅子に、深く沈み込むように座っていた。 数日分の疲労が、その整いすぎた美貌に濃い影を落とし、着衣も乱れている。 彼は、鍵が開いた音で顔を上げた。 そして、光を背負って入ってきた向日葵を、信じられないものを見るような、薄紫の瞳で見つめた。

「……どう、やって……入った……?」
声は、ひどく掠れていた。
「扉が……開いたから……」
「……鍵は、かけたはずだ」

セレスは、もはや怒る気力も、仮面を作る余裕も残っていないようだった。 ただ、自分の聖域を、物理的な法則さえ無視して侵入してきた少女を、呆然と見上げていた。
「君は……」彼は、乾いた笑いと共に呟いた。
「……本当に、『化け物』だな」

それは、侮蔑ではなかった。 神々の定めたルールすら、その純粋な「感情」一つで飛び越えてしまう存在への、畏怖にも似た呟きだった。

「ごめんなさい」
向日葵は、暗闇に目が慣れ、彼の憔悴しきった姿をはっきりと認め、胸が締め付けられるのを感じた。
「私、セレスさんが心配で……」
「……心配?」
セレスは、その言葉をオウム返しにした。
「この俺をか? ふふ……面白い冗談だ」

彼は立ち上がろうとして、よろめいた。 向日葵は、駆け寄ってその腕を支えようとする。
「触るな!」
セレスは、残った力でその手を振り払った。 だが、その声には、あの夜のような刺々しさはなかった。

「……もう、いい」
彼は壁に手をつき、荒い息を整えた。
「もう、俺に関わるな。君のその無垢な好奇心は、俺には『毒』だ。……俺を、これ以上壊さないでくれ」

それは、彼の本心からの懇願だった。 自分を救う価値などないと思っている男が、初めて見せた、むき出しの弱さだった。

向日葵は、振り払われた手を見つめ、それから、きつく握りしめた。 彼女は泣かなかった。怯えもしなかった。 ただ、まっすぐに彼を見つめ返した。

「……毒なら、ちょうどいいです」
「……何?」
「セレスさんは、お医者様でしょう?」
彼女は、一歩、彼に踏み込んだ。セレスは後ずさろうとしたが、壁に阻まれた。
「私を、セレスさんの『薬』にしてください」
「……何を、言って……」

「私、セレスさんのこと、知りたいです。セレスさんが『迷子』なら、私、一緒にお散歩します。セレスさんが『毒』だっていうなら、私、それを飲む最初の患者になります」
「……やめろ」
「だから、私に、ちゃんと教えてください」

彼女は、彼の胸にそっと手を当てた。 拒絶されることも、振り払われることも覚悟の上だった。
「セレスさんが隠してる『痛み』を、私にも、少しだけ分けてください」

セレスは、息を止めた。 胸に当てられた小さな手のひら。 そこから伝わる、恐れも計算も何もない、ただひたすらに真っ直ぐな温もり。 彼が「遊び」としてしか触れることのできなかった他人の体温が、今、彼の鎧も仮面もすべて貫通して、救われる価値がないと諦めていた素顔の魂に、直接触れていた。

「……ああ」
セレスは、観念したように、力を抜いた。 彼は、その場に崩れ落ちそうになるのを、彼女の小さな肩に額を預けることで、かろうじて支えた。
「君は……本当に……」

彼の声は、震えていた。 「……最悪の、小鳥だ……」

暗い薬草室で、理性と官能の仮面を失った神の騎士が、ただ一つの無垢な感情に捕らえられた瞬間だった。