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額が触れ合ったままの、至近距離。 セレスは、生まれて初めて「鎧」を脱いだかのような無防備な感覚に、めまいを覚えていた。目の前にある温もりが、あまりにも現実味を帯びていて、それでいて夢のように穏やかだったからだ。 彼が長年恐れていたもの――他者を受け入れ、自分自身が救われてしまうこと――が、今、目の前で起きている。

「……君は」 セレスは、ゆっくりと体を離した。だが、今度は彼の方から、そっと向日葵の手を取った。 医者が脈を診る指先ではなく、ただ一人の男として、その小さな温もりを確かめるように。 「……本当に、ひどいことをする」

その声には、もう拒絶の色はなかった。あるのは、深い戸惑いと、それ以上に抗いがたい安堵だった。 「私、何かしましたか?」 向日葵が、まだ少し潤んだ瞳で首を傾げる。 「……自覚がないのか。それだから、君は最悪だと言っている」

セレスは、その手を握ったまま、ふ、と力なく笑った。 「俺の秩序が、全部狂ってしまった。……君のせいでな」 「私のせい?」 「ああ。君のせいだ」

セレスは、もう片方の手で、乱れた彼女の黒髪をそっと払った。その仕草は、彼が普段女性を揶揄う時の流麗さとは違う、ひどくぎこちなく、真剣なものだった。 「救われる価値がないと諦めていたんだ。……君が、この扉をこじ開けるまでは」

彼は、自らが鍵をかけたはずの、薬草室の扉を一瞥した。 それは、彼の心の扉そのものの暗喩だった。

「こじ開けてませんよ。開いたんです」 向日葵は、むっとしたように唇を尖らせた。 「セレスさんが、開けてくれたんだって思いました」 「……俺が?」 「うん。……だって、私が『会いたい』って思ったから」

その、あまりにも純粋で、揺るぎない理屈。 セレスは、もう笑うしかなかった。この少女の前では、彼の積み上げてきた理性も、自己防衛の理論も、何一つ役に立たない。 「……そうか。なら、そうなんだろうな」

彼は立ち上がり、よどんだ部屋の空気を断ち切るように、閉め切られていた窓のカーテンを勢いよく開いた。 中立神域の、夜明け前の淡い光が、埃っぽい薬草室に差し込む。 数日分の怠惰と葛藤の残骸が、白日の下に晒された。

セレスは、その光の中で改めて向日葵に向き直った。 憔悴はしていたが、その表情は暗闇の中にいた時よりもずっと澄んでいる。まるで、高熱が引いた後のように、穏やかですらあった。

「……さて」
彼は、わざと咳払いを一つした。
「こんな場所に、か弱い小鳥をいつまでも閉じ込めておくわけにはいかないな。君の神様(パトス)が、悲劇だと騒ぎ立てる前に」
「私、弱くないですよ?」
「ふふ、そうだったな」
セレスは、今度こそ自然に笑った。「君は……俺が知る誰よりも、強い」

彼は、まだ少しおぼつかない足取りで扉に向かい、それを開けた。 ひやりとした早朝の空気が、廊下から流れ込んでくる。

「セレスさん」
「ん?」
「あの……手、」
向日葵が、赤くなった顔で、まだ彼に握られたままの自分たちの手を指差した。 セレスは「ああ」と短く応えると、その手をパッと離すかと思いきや、逆に指を絡め、しっかりと握り直した。

「……!」

「君は、俺を『毒』だと言ったな」
「あ……はい」
「なら、責任を取ってもらおうか」
セレスは、いつもの余裕を取り戻したかのように妖艶に微笑んでみせた。だが、その耳がかすかに赤いことを、光の中に出た向日葵は見逃さなかった。
「……俺の主治医として、そばにいろ。いいね?」

それは、彼が生まれて初めて口にする、不器用極まりない「独占欲」だった。 向日葵は、一瞬きょとんとした後、今にも咲き誇る花のように、満面の笑みを浮かべた。

「はい! 喜んで!」

セレスは、その眩しい笑顔に目を細めると、彼女の手を引いて、光差す廊下へと一歩踏み出した。
「……まずは、朝食だな。君の寝坊のせいで、食堂はまだ開いていないだろうが」
「私、お腹すきました!」
「知っている」

仮面を脱ぎ捨てた騎士と、その心を無自覚に解き放った少女。 二人のぎこちない足音が、神々がまだ眠る、静かな神域の夜明けに響き始めた。