甘えてほしい





夜も三時を回ろうかという頃。 拠点の工房の灯りが、まだ煌々と点いていることに気づき、私はそっと扉を開けた。
「……セレス? まだ起きてたの」
そこには、やはり、彼がいた。 机いっぱいに難解な医学書と薬草を広げ、羽ペンを走らせている。 その完璧な横顔はいつも通り知的で、近寄りがたいほど整っていた。
「……おや。君か」 彼は私に視線を向けずに、くす、と喉で笑った。
「こんな時間まで。……もしかして、俺に会いたくて眠れなかったか? 可愛い小鳥だ」
「……違うよ。灯りがついてたから」
私は薬湯の入ったカップを二つ持って、彼の隣の椅子に腰を下ろした。
「……はい、これ。集中力が高まる薬湯。セレスの真似して作ってみた」
「ほう。君から差し入れとは、珍しい」 彼はそう言って、ようやく顔を上げた。
その瞬間、私は「あっ」と声を漏らしそうになった。
「……セレス」
「なんだ?」 彼はいつものように、完璧な微笑みを浮かべている。 ……けれど。 燭台の光に照らされた彼の顔は、明らかに、いつもより血の気が引いていた。 完璧な微笑みとは裏腹に、その薄紫の瞳の奥には、隠しきれないほどの深い疲労の色が浮かんでいる。
「……セレス、顔色、悪いよ。……もしかして、昨日も寝てないの?」
昨日、隣町で起きた流行病の治療に、彼が一日中駆り出されていたのを私は知っていた。
「……ふふ。何を言っている。この俺が、そんなことで疲れるとでも?」
彼は私の心配を揶揄うように、優雅にカップを手に取った。 だが、そのカップを持つ指先が、ほんのわずかに、震えているのを、私は見逃さなかった。
(……この人、また強がってる)
いつもそうだ。 この人は、決して、自分の弱さを他人に見せない。 私を「小鳥」と呼んで手のひらで転がし、常に余裕のある「セレス」でいようとする。
私は、何も言わずに立ち上がった。 そして、彼の背後に回り込むと、いつもは頼もしく見える肩に、そっと手を置いた。
「……っ」 彼の肩が、驚きに小さく跳ねる。
「……ねえ、セレス」 私は、彼の耳元で、静かに言った。
「私、魔術薬学士だよ。……ヒーラーの不調くらい、私にだって分かる」
「……」
「……それに、私、寝るのが大好きなの。だから、寝てない人の匂いも、分かるんだ」
私の言葉に、セレスは何も言い返さなかった。 ただ、彼の完璧な仮面が、ほんの少し、揺らいだ気がした。
私は、彼がいつも私にするように、彼の頬に、そっと、自分の手を当てた。
「……ほら。やっぱり、少し熱い」
私の少し低い体温が、彼の熱を吸い取っていくようだった。
「……やめろ」
セレスが、掠れた声で言った。
「……君に、そんな顔をされる筋合いは……」
「筋合い、あるよ」
私は彼の強がりを遮った。
「……いつも、揶揄ってばっかりで余裕ぶってるけど」
私は、彼の前に回り込み、その薄紫の瞳をまっすぐに見つめた。
「……たまには、私にも頼ってくれたって、いいんじゃないかな」
「……」
セレスは、目を見開いたまま、固まっていた。 その顔は、驚きと、戸惑いと……そして、ずっと張り詰めていた糸が、切れそうになっている子供のような、危うい表情をしていた。
私は彼の腕をそっと引いた。
「……もう、終わり。今日は、寝て」
「……だが、この資料が……」
「明日! 明日、私も手伝うから」
彼は珍しく、抵抗らしい抵抗をしなかった。 ただ、私の手に引かれるまま、工房の隅にある、彼が仮眠に使うための長椅子に、力なく腰を下ろした。
私も、その隣に、ちょこん、と座る。 しばらく、二人とも、何も言わなかった。 ただ、工房の時計の音だけが、静かに響いていた。
やがて。 こてん、と。 私の肩に、重い何かが、寄りかかってきた。
「……え……?」
見ると、セレスが私の肩に、頭を預けていた。 いつもの完璧な微笑みは、どこにもない。 ただ、疲れ切ったように目を閉じて、体重を私に預けている。 その無防備な寝息が聞こえてきそうだった。
(……うそ)
(……セレスが、私に、甘えてる……?)
私の心臓が、ドキリ、と音を立てた。 あの、いつも余裕綽々なセレスの、こんな姿。
「……セレス……?」
私が小さな声で呼びかけると、
「……うるさい」 と、子供が拗ねたような、小さな声が返ってきた。
「……少しだけ、このままでいてくれ」
「……」
「……君は、妙なところで……温かいんだな……」
そう言って彼は、私の肩口にさらに深く、顔をうずめた。 その声が、どうしようもなく甘えているように聞こえて、私は、顔が熱くなるのを感じた。
(……なんだ)
(……この人、本当は……)
私は驚きとそれ以上のどうしようもない愛おしさに、そっと、彼のいつもは完璧に整えられた暗めの桃色の髪を、指で優しく撫でた。 彼はもう、何も言わなかった。 ただ子供のように、静かな寝息を立て始めた。
彼の規則正しい寝息が、静かな工房に響き始める。 私の肩に預けられた頭はずしりと重い。
(……本当に、寝ちゃった)
私の心臓は、さっきから、うるさいくらいに鳴り響いている。
(……聞こえてないかな)
私は、彼を起こさないようにそっと、彼の手元に視線を落とした。 机の上に投げ出された、彼の手。 いつもはその細く長い指で私を揶揄い、意地悪く追い詰めてくる、あの手だ。 けれど今、その手はインクでわずかに汚れ、ペンを握りしめていた名残で、小さく強張っている。
(……この人、本当に、ヒーラーなんだな)
私が見ているのは、いつも余裕綽々な「セレス」という男の、ほんの一面でしかない。 その裏側には、こうして人知れず身を削って誰かを救っている彼がいる。
(……ずるい)
いつもは、彼に意地悪く「ずるい」と言わされている私が、今度は、心の底から、そう思った。 こんな無防備な顔、 こんな子供みたいな寝息、 こんな私にすべてを預けるような体温。
(……こんなの見せられたら、もう、何も言えないじゃない)
私の中の負けん気の強さやプライドの高さが、彼のこの姿の前では、音を立てて溶けていく。
(……しょうがないなぁ)
私はそっと自分の肩を、彼がもたれやすいように、少しだけ角度を変えた。 そのわずかな動きに、セレスが、ん……と、小さく身じろぎした。
「……っ!」 息をのむ。
(……起きた?)
セレスは、目を覚まさない。覚まさないまま、私の肩口にさらに深く、顔をうずめた。 そして。 彼の手が、まるで、温かい場所を探すかのように、私の膝の上に置かれていた手を、探り当てた。 そして、そのまま、ぎゅ……っと、握りしめた。
「―――――っ!!」 声にならない悲鳴が、喉の奥で弾ける。 (……な……!) (……なんなの、この人……!)
無意識? それとも、寝ぼけてる? どっちにしろ、反則だ。
「……っ、セレス……?」
私が、小さな、掠れた声で呼びかけると、 「……ん……」 と、寝ぼけた、甘い声が返ってきた。
「……さむ……」
「……え?」
「……さむい……」
彼は、握りしめた私の手を、まるで湯たんぽでも抱えるかのように、自分の胸元へと引き寄せた。 彼の手は、彼の言った通り、少し冷たくなっていた。
(……薬湯、飲んでない) 机の上のカップは、すっかり冷めている。
(……このままじゃ、本当に、風邪ひいちゃう) 私は、意を決した。
「……セレス、起きて」 私は、彼の髪を撫でていた手で、彼の頬を、優しく叩いた。
「……セレス。こんなところで寝たら、だめ。ベッド、行こ?」
「……んー……」 彼は、ひどく、ぐずるような声を出す。 いつもの、あの妖艶な彼とは、似ても似つかない。
「……いやだ……」
「やだ、じゃないよ。ほら、立って」
「……君も、一緒なら……」
「……え?」
「……君も、一緒に、寝るなら……行く……」
(―――――っ!!) 私は、今度こそ、言葉を失った。
(……寝ぼけてる)
(……絶対、寝ぼけてる)
(……でも)
(……この人、こんな、甘えたなこと、言うんだ……) 私の顔が、カッと、熱くなる。 心臓が、もう、破裂しそうだ。
「……っ! わ、わかった! わかったから! とりあえず立って!」 私が、半ばヤケクソのように叫ぶと、 「……ん……。やくそく……」 と、彼はようやく、重そうにまぶたを、ゆっくりと持ち上げた。
その薄紫の瞳は、熱でひどく、潤んでいた。 そして私をまっすぐに見つめて、 「……捕まえた」 と、いつもの、意地悪な笑みとは違う、ただひたすらに甘い笑顔で、ふにゃり、と笑った。
(……あ) (……だめだ、これ)
私はこの予測不能な反撃に、今夜自分がどうなってしまうのか。もう考えるのをやめた。
私の心臓が、警告音のように、激しく鳴り響く。 いつもの、余裕綽々で私を揶揄ってくるセレスなら、いくらでも反撃できる。 けれど。 こんな、熱に浮かされた、無防備でひたすらに甘い笑顔のセレスなんて。

(……知らない) (……こんなの、反則だ)

「……っ! も、もう! 寝ぼけてないで、早く立って!」 私が、真っ赤になった顔を隠すように、彼の腕を引っ張る。
「……ほら、ベッド行くんでしょ!」

「……ああ」 彼は、素直に頷くと、私に握られた手を、逆にぎゅっと握り返してきた。
「……捕まえたんだから、もう、どこにも行かせない」
「……!」 (……だから、わかったってば!)

セレスは机に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。 ……が。

「……っ」 その完璧なはずの体が、不意に、ぐらり、と傾いだ。

「わっ!? セレス!」
私は、慌てて、倒れそうになる彼の体を、その細い腕で必死に支える。
「……おや。少し、眩暈が……」 彼は困ったように、ふ、と笑った。
「……すまないな、小鳥。……どうやら、本当に、限界だったらしい」

(……この、状況で、まだ「小鳥」とか言う……!)
けれど、その声には、いつもの揶揄う響きは、微塵もなかった。 ただひたすらに、疲労しきった、かすれた声。
「……もう! 無理しないで!」 私は彼の腕を、自分の肩に回させた。 158cmの私が、彼を支えるのは、かなり無理がある。
「……う……重い……」
「……ふふ。……すまない」
彼の体重が、ずしりと私にかかる。 耳元で彼の荒い息遣いと、私よりも、明らかに高い熱い体温を感じる。
「……あったかいな……。……君の匂いがする……」
「……っ! しゃ、喋ってないで、歩いて!」 (……なんで、こういう、素直な言葉の方が、心臓に悪いの……!)
よろよろと、一歩、また一歩。 工房から寝室までの短い廊下が、永遠のように長く感じる。 ようやく、私の部屋――私のお気に入りの、寝心地のいいベッドがある、あの部屋――に、たどり着く。
私は半ば彼をベッドに放り投げるようにして、マットレスの上に座らせた。
「……ふぅ……っ」
「……ありがとう」
セレスは、ベッドに座ったまま、ぐったりとうつむいている。
「……セレス、服、これじゃ眠れないよ」
彼はまだ、あの黒や深紅を基調とした、品のある硬そうな生地の服を着たままだ。 私が彼の襟元の複雑な留め具に、手をかけようとした、その瞬間。
がしっ。 彼の手が、私の手首を掴んだ。
「……だめだ」
「……え?」
「……君が、やると……」
セレスは、うつむいたまま、途切れ途切れに、言った。 「……俺、の、理性が……持たない……」
(―――――っ!!) 私は、カッと、顔に血が上るのを感じた。
「な……! ばか! 寝ぼけて、何言ってるの……!」 (……この人は! この期に及んで……!)
「……寝ぼけてない……」 彼は私の手首を掴んだまま、ゆっくりと顔を上げた。 その熱に潤んだ薄紫の瞳が私をまっすぐに捉える。
「……本気だ」
その瞳には、いつもの意地悪な色ではなく、ただ、ひたすらに、私を求める、雄の、剥き出しの熱が、宿っていた。
「……っ」
私は、何も、言い返せなかった。 ただ、彼の熱に、当てられたように、動けなくなる。
「……だから」
彼は、掴んだ私の手首を、そっと、自分の頬に、当てさせた。
「……このまま、でいい……」
(……え?)
私は彼が、そのまま私を押し倒すのだと思っていた。 けれど。
「……服、なんて、どうでもいい……」 彼は私の手の甲に、すり、と、まるで、猫が甘えるかのように、頬を擦り寄せた。
「……君が、そばに、いてくれれば……」
(……) (……うそ、でしょ……)

彼はそのまま、私の手首を掴んだまま、ごろん、とベッドに横になった。 そして私を引っ張った。
「わっ!?」 私はバランスを崩し彼の隣にどさりと倒れ込む。
「……っ、セレス!」
私が慌てて起き上がろうとすると、
「……やくそく」 と、彼が子供のように呟いた。
「……え?」
「……一緒に、寝るって……。……言っただろ……」
彼は目を閉じたまま、私の腰にそっと、腕を回した。 力は、入っていない。 けれど、絶対に離さない、という、意思表示。
「……っ」
私は、動けなくなった。 「……あったかい……」 彼は私の髪に顔をうずめると、
「……ようやく、眠れる……」 と、安堵したように、深く息を吐いた。

そして、ものの数秒で、静かな深い寝息が聞こえ始めた。
(……) (……) (…どういう、こと……?)
私は、彼の腕に、抱きしめられたまま、 硬直していた。 彼の、無防備な寝顔。 私の腰に回された彼の腕。
(……主導権、とか、ペース、とか) (……もう、どうでも、いい……)
私は真っ赤になった顔を枕にうずめた。 心臓が痛いくらいにうるさい。 今夜はどうやら、彼ではなく、私の方が眠れそうになかった。


___


窓の外から、フクロウたちとは違う、小鳥のさえずりが聞こえる。 柔らかい日差しがまぶたを優しく刺激した。

(……あれ……? あさ……?)
私は、重い意識を、ゆっくりと浮上させた。
(……私、いつのまに、寝ちゃったんだろ……) 昨夜のあの心臓がうるさくて眠れないほどの興奮はどこへやら、意外なほど、ぐっすりと眠れたようだ。 体がぽかぽかと温かい。

(……あったかい……?) その、温かさの正体に気づいた瞬間。 私の寝ぼけた思考は、完全に覚醒した。

(―――――っ!!)

そうだ。 私、セレスと一緒に、寝たんだ。 私の背中は彼の胸板にぴったりと密着している。 彼の規則正しい寝息が、すぐ後ろの首筋にかかっていた。
(……う、うそ……! 朝!? 朝になっちゃった!?)
顔が、カッと、一瞬で熱くなる。
(……ど、どうしよう……!)
(……彼が、起きる前に、早く、離れないと……!)
こんな、朝チュンみたいな状況、彼に見られたら! 昨夜のあの甘えた寝ぼけ声はどこへやら。絶対にいつもの意地悪な顔で揶揄われるに決まってる!
私は息を殺し、彼の腕をそっと、私の腰から、外そうと試みた。
……だが。 その手は、まるで鉄の枷のようにびくともしない。 それどころか。
「……ん……」 私が、もぞ、と動いたせいで、彼の意識が、浮上しかけている気配がした。
(……まずい!)
私は慌てて寝たふりを決め込んだ。 目をぎゅっと固くつむる。 頼む、そのまま二度寝してくれ……!
……しん……。 背後で、彼の寝息が、止まった。 ……起きた。
(……どうしよう) (……寝たふり、寝たふり……)
私の心臓が、痛いくらいにうるさい。 どうかこの音に気づかないで。
数秒の、永遠のような静寂。 やがて。 私の、耳元で、 「……ふふ」 と、低く、楽しそうな、笑い声がした。
(……っ!) (……終わった……)
「……おはよう、俺の可愛い小鳥」
その声はもう、昨夜の熱に浮かされた「甘い声」ではなかった。 私のすべてを見透かしたような、余裕綽々の妖艶な声。
「……随分と、ぐっすり眠っていたじゃないか」
(……知ってたな、この人!) (私が、起きてるって、気づいてたんだ!)
「……っ!」 私は、もう、寝たふりを続けるのは無理だと観念し、 ばっ! と、勢いよく、目を開けて、彼を振り返った。
「……っ! お、おはようじゃない! これは、その……!」
私が見たのは、 完璧な微笑みを浮かべ、私のお気に入りのベッドの上で、実に優雅な朝を迎えている、セレスの顔だった。 その薄紫の瞳は、熱の気配など微塵も感じさせず、ただ私を揶揄う、いつもの色だった。
「……これは、その?」
彼は私の言葉を意地悪く繰り返す。
「……昨夜、俺に『一緒に寝る』と、約束してくれた心優しき薬学士様が、その約束を忠実に、守ってくれた、ということか?」
「ちが……! 違う! あなたが病人で、倒れそうだったから! 仕方なく……!」
「ほう。仕方なく?」
彼は私の腰に回した腕にぐっと力を込めた。
「ひゃ……っ!」 私の体が彼の胸元に、さらに強く、引き寄せられる。
「……仕方なく、にしては」 彼は、私の真っ赤になった顔を覗き込む。
「……随分と、気持ちよさそうに、俺の腕の中で、寝ていたようだが?」
「……っ! そ、それは……!」
「……俺は、嬉しかったがな」
(……また、これだ) (……この人は、いつも、こうやって、私を、手のひらで……!) 私が悔しさに唇を噛み彼を睨みつけると、 セレスは、ふと、その表情をわずかに緩めた。
「……まあ、いい」
彼は、私の腰を抱いていた腕をそっと解いた。 そして、その手を私の額に優しく当てる。
「……熱は、ないな」
「……!」 今度は、彼が私を『診察』している。
「……だが、脈は、相変わらず、ひどく速い」 彼の指が、私の頬をそっとなぞる。
「……顔も、真っ赤だ」
「……う、うるさい!」
私は彼の手を振り払うと、ベッドから転がり落ちるようにして飛び起きた。
「……っ! あなたこそ、もう、熱は、いいの!?」
セレスは、ゆっくりとベッドの上で体を起こした。 その仕草は、まるで高級な宿で極上の朝を迎えたかのように、優雅だった。
彼は、自分の額に、手を当て、 「……ふむ」 と、頷く。
「……ああ。すっかり抜けたようだ」 彼は、私を見つめ、
「……どうやら、特効薬が効きすぎたらしい」 と、妖艶に笑った。
「……とっこう、やく……?」
「ああ」
彼はベッドから音もなく立ち上がった。 昨日彼が着ていた、あの硬そうな服は、寝ている間に少ししわが寄っている。 ……それが、なぜか妙に生々しくて、目をそらしてしまう。
彼は、部屋の扉に、手をかけ、 「……君、という、極上のな」 と、私にしか聞こえない声で囁いた。
「……っ!」 私が枕を掴んで、彼に投げつけようとした、その瞬間。 「さて」 彼は、くるりと私に、背を向けた。
「……礼を言うぞ、小鳥。……おかげで、久しぶりに、熟睡できた」
その声はいつもの揶揄う響きではなかった。 ただ静かでほんの少しだけ、優しい、……素直な感謝。
「……」
枕を投げつけるタイミングを失ってしまった。
(……本当に、もう……) (……この人には、勝てる気が、しない……)
私が呆然と、立ち尽くしていると、 扉が閉まる直前、「……ああ、そうだ」 と、彼が思い出したように顔を覗かせた。
「……昨夜の『約束』だが」
「……!」
「……俺は、まだ、君に『一緒に寝て』もらった、礼を返していない」
「……今夜は、俺の部屋で。俺が君を、寝かせてやろう」
「―――――っ!!」

私が今度こそ枕を力いっぱい投げつけたのと、 彼が楽しそうに喉を鳴らして扉を閉めたのは、 ほぼ同時だった。