甘い毒の処方箋
その日の午後は、珍しく穏やかだった。 ダリアンは鍛錬に出かけ、拠点である一軒家には彼女とセレスの二人だけ。彼女はリビングの床に薬草の資料を広げ、分類作業に没頭していた。傍らでは丸いフクロウたちが、セレスに撫でられてうっとりと目を細めている。
「……ふむ。随分と熱心だな」
ソファにゆったりと腰かけたセレスが、医学書から顔を上げずに言った。
「当たり前だよ。これは大事な仕事なんだから」
「そう睨まなくとも。だが、少々根を詰めすぎているんじゃないか? 君の愛らしい眉間に、皺が寄っている」
「……ほっといてよ」
セレスは音もなく立ち上がると、床に座る彼女の背後に回り込み、その場に片膝をついた。ふわりと、彼の纏う上品な香りが彼女の鼻腔をくすぐる。
「……なに?」 「なに、ではないだろう。俺は君の体調を管理する医者でもあるんだ」
セレスの長い指が、彼女のうなじに触れた。
「ひゃっ……!」
ぞくり、とした感触に彼女の肩が跳ねる。
「……こら。緊張しすぎだ。力が入りすぎている」
「だっ、だって、セレスが急に変なとこ触るから……!」
セレスはくすくすと喉を鳴らすと、指先で彼女の首筋をなぞるようにマッサージを始めた。
「君は本当に反応が素直だ。……まるで上質な絹だな、君の肌は」
「……っ」
(また、からかってる……!)
いつもそうだ。セレスは余裕のある態度で彼女を揶揄い、その反応を見て楽しんでいる。彼の薄紫の瞳が、面白がるように細められているのが背後からでもわかった。
(セレスばっかり、いつも楽しそうで、ずるい)
負けず嫌いな性格と、彼への認めがたい好意が、彼女の中で奇妙な化学反応を起こした。 いつもなら真っ赤になって黙り込むところだが、今日はダリアンもいない。
「……セレス」
「ん? どうした、俺の小鳥」
彼女は作業をぴたりと止めると、くるり、と振り返った。そして、片膝をついたままのセレスの胸元に、ためらいなく頭をこすりつけた。
「……ん?」 セレスの指が、一瞬だけ止まった。
「……疲れた」
「……ほう?」
「セレスが邪魔するから、集中力切れた。どうしてくれるの」
「……それは、随分な言い分だな」
セレスは、先ほどの余裕のある笑みとは違う、どこか獰猛な獣を思わせる笑みを浮かべた。
「俺のせいだと言うのか。……なら、どうしてほしい?」
彼女は、彼の黒いシャツの胸元に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。
「……セレスが、癒してよ」
「……」
「私、もう動きたくない。……セレスが、あっちのソファまで運んで。それから、髪、撫でて」
それは、彼女にしては最大級の「おねだり」だった。 普段のセレスなら、ここでさらに言葉で揶揄い、彼女が真っ赤になって逃げ出すまで焦らすだろう。
だが。
「……はぁ。まったく、君という小鳥は」
セレスは深く息を吐くと、ため息とは裏腹に満足げな顔で、いとも容易く彼女の体を横抱きにした。
「きゃっ!?」 「『運べ』と言ったんだろう? 医者の処方箋だ。……君には、休息と、それから……」
セレスは彼女をソファにそっと降ろすと、自分も隣に腰掛け、逃げられないように片腕で彼女の肩を抱き寄せた。
「……セレス……?」
「俺の補充、が必要だな」
セレスはそう言うと、彼女の艶やかな黒髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……っ!」
「ふふ。いい匂いだ。……どうやら、君を甘やかすことは、俺にとっての治療にもなるらしい」
耳元で囁かれる甘い声に、彼女の全身の力が抜けていく。
(……敵わない)
結局、甘えているつもりが、セレスの腕の中に捕まって、骨抜きにされてしまっている。
「……セレスの、いじわる」
「最高の褒め言葉だ。……さあ、望み通り、いくらでも甘やかしてやろう。俺の可愛い子猫」
薄紫の瞳が、とろけるように彼女を見つめていた。 もう、どちらが甘えているのか、あるいは甘やかされているのか、彼女にはわからなくなっていた。