まだりつ小話

「律兎はいなかったの? 学校とかで、気になる子」
「はあ? いねえよ、そんなの……」

 どういった話の流れだったか。移動中の車内にて、そんな会話が交わされていた。話題を振った方の洒掃にも特別深い意図はなかっただろう。できたばかりの相棒との距離感を計るような、探るような、赤信号に捕まったからなんとなく頭に浮かんだことを口にした、ただそれだけだった。助手席に座りおとなしく揺られている話題を振られた側の響律兎はといえば、凡そこれからの仕事にそぐわないであろう話題に眉を寄せた。

「女とか……なんか、面倒だし」
「はは……まあ、今どきの子は恋愛しない子も多いというし、別にしなきゃいけないわけでもないか」
「ジジくさ」
「あはは……」

 どうやらまだ心を開いてはくれないらしい律兎の歯に衣着せぬ物言いに度々苦笑を混ぜ、洒掃は真正面のガラスの先から目を離さずに言葉を続ける。

「でも、これから先、律兎にとって大切な人ができるといいね」

 穏やかな表情の洒掃の横顔を目に入れて、律兎はそれには何も返さず、どちらかというのであれば何も返すことができず、くるりと視線を窓の外へと投げかけたのだった。





 その大切な人がこいつだというのか、讙。
 いくら15年を過ぎる付き合いの相方だといっても、残念ながら心の声は届かないだろう。そんなことは律兎にもわかっているし、こんな思考すら無意味な現実からの逃避だとは理解しているが、しかしそうでもしなくては目の前の状況とはとても向き合えなかった。

「一応聞くが、それはなんだ」
「媚薬です」
「は?」
「催淫剤、惚れ薬とも呼ばれるそうです」
「うるさい、意味は理解している」

 テーブルに並べられたいくつかの小瓶。透明の瓶から透ける中身は淡いピンク色を輝かせている。そして、そのテーブルをはさんで向かい側に座る斑斑斑は、やはりいつも通り姿勢を正した素晴らしい居住まいである。

「なぜ、これを、コーヒーの中に?」
「大丈夫です。人が死ぬような成分は入っていません」
「いや、その心配をしているわけじゃ……というか、それは大前提だろ」

 時刻は昼過ぎ、そろそろおやつの時間に差し掛かろうとしている中、職場の談話室にて。たまたま今日は依頼が立て込んでいるようで、この部屋には律兎と斑の二人しかいない。多忙であるのは律兎も例外ではなく、つい先程まで出払っている洒掃の代わりに引きこもって事務仕事を片付けていた。休憩がてらと喫煙所に寄り、冷蔵庫に入れていた飲みかけの缶コーヒーの存在を思い出して談話室へと足を運んだのだが、そこで目的の缶コーヒーと小瓶を手にした斑と出くわしたのだった。

「俺が聞いてるのは、どうしてその薬をコーヒーに混入させようとしてたのか、っていうことだ」
「すみません、魔が差しました」

 責める通りがあるはずのこちらが誤っているのではないかと錯覚するほどのまっすぐな瞳と潔さ。思わず深くため息を吐き出してこめかみを押さえる。どこで教育を間違ったんだろうか。いや、間違えたのではなく放任しすぎたのだろうか。彼が入社してから今までのことを思い返しながら黙り込む一方で、斑もおとなしく律兎の次の言葉を待っている。やはり、素直だし、従順だ。たまに突拍子もないことをしでかされるだけで。その突拍子もない事柄にいつも妙に痛い目を見せられているのだが。

「……魔が差した理由は。またネットで見たとか言うなよ、お前」
「マンネリ化には媚薬と書かれた記事を読みました」
「ネットじゃないか。やめろって言ったよな。しかもマンネリ化ってなんだ。してる自覚があるのか」
「マンネリ化というのがそもそもピンときていません」
「じゃあ二度とマンネリ化とかいう記事を読むな。いいな」

 話はこれで終わりだと切り上げ、ソファから腰をあげる。当然ながらこの薬を事務所に置いておくわけにもいかないだろう。流し台にすべて流して瓶まで処分してしまおうと小瓶を回収しようとしたところだった。

「律兎さんが、」
「俺?」
「以前、薬を誤飲してトリップした際の律兎さんと比べると、普段の律兎さんは所謂喘ぎ声と呼ばれるものがないので。もしかすると、世で言うマンネリ化、というやつなのではないかと思い」

 心なしか落ち込んでいるようにも見えるその態度に、怒りか罪悪感かはたまた別の何かか、意識が遠のきそうになるのを無理やり繋ぎ止める。トリップしてた俺は一体どうなってたんだ。知りたいような、いや絶対に知りたくない。自分の記憶が飛んでいるのが幸いというべきか。しかしどう考えても醜態しか晒していないだろう姿を相手は記憶しているうえに、それと比較されているのが正直なところ全く良い感覚はしない。ただ、彼の悩み自体は世間一般の恋人同士が抱くそれと何ら変わりのない理由だろう。となれば自分に非がないとは言い切れない、ような気もする。怒るべきか、諭すべきか。恋人への悩みというよりはどちらかと言えば親のような悩みをぐるぐる回転させた末、律兎は再び深く溜息を吐き出した。

「行動原理は分かった、が、別に、普段の行為に満足していないわけじゃない。心配するようなこともない」
「そうですか」
「ああ。というかドラッグを摂取した時と比べるな。どう考えても正常じゃないだろうが」
「そういうものですか?」
「そういうものだ。じゃあこれも要らないな? 捨てるぞ」
「あ、いえ」
「は?」
「折角作ったので一度試してみたいのですが」
「お前、全然反省してないだろ」

 あっけらかんと言い放つ斑の言葉に、今度こそ小瓶を手にした律兎は舌打ちをひとつ返し、ひとり流し台へと足を進めるのだった。