二の足を踏む

 喧嘩はたくさんしてきた。怪我を負うのも怖くない。けれど、生きるとか死ぬとか、そういうのとは無縁な世界で生きてきた。これまでだってこれからだって、こんなことで死ぬために生きてきたわけじゃない。
 あの時ああしていれば、こうしていればと、無意味なもしもが浮かんでは消える。体内を埋める後悔と絶望の文字は、右手首にぴたりと固く締め付けられた青い腕輪の存在によって一時たりとも忘れさせてはくれなかった。

 初夏の風が頬を撫でる。気を失って足元に横たわっているカラーギャングの男をぼうっと眺めていると、背後から声がかけられた。低い声音で紡がれる癖のあるイントネーションの言葉。

「烏黒の衆入りたい言うて、最近暴れてんのはお前か?」

 闇に溶け込む漆黒の髪と、鈍く光る青い瞳。その視線は、他の誰でもない俺の瞳を痛いほどに射抜いた。





 噎せ返るほどの暑さがいつの間にか過ぎ去り、冬の訪れを肌で感じる今日この頃。といってもカラーギャングの活動に四季の移り変わりなど関係ない。今日も今日とて後を尾けられていないか警戒しながら、慣れた足取りで渋谷の街を進む。

「お疲れ様でーす」

 渋谷区襲撃部隊アジト。
 入り組んだ路地をいくつか通り抜けた先にあるその場所に足を踏み入れた。自部隊の居場所と言うべきそこは昼間だというのに薄暗く、人の気配は感じられない。
 それにしても、隊長である北条骸自ら指定した時間であるはずなのだが。不思議に思いながら首を傾げ、時間を確認して、そして辺りを見渡した。
 実のところ、自分はあまりこの場所で時間を過ごすことはない。まるで自宅のように居座る人もいるようだが、どうにも長居すればするほどに居心地の悪さを感じてしまうのだ。無論、その理由など考えるまでもなく解りきっているのだが。
 そんなこともあり、物珍しさにまじまじと改めてアジトを見回しているとようやく小さな違和感に気が付いた。
 視界の端、誰が持ち込んだのかわからない年季の入った小ぶりな革張りのソファに、目的の人物は肘をつき座っていた。その瞳はいまは閉ざされている。

 珍しいこともあるものだ。
 自分が襲撃部隊の一員として動き始めて数か月、彼が人目に付く場所で眠りについているところなんて一度も見たことがなかった。部隊の性質上隠密行動も多い襲撃部隊は特に警戒心の強い人物が多い、ように思う。勿論、それは筆頭である北条骸も例に漏れない。
 息を潜め、影を薄め、足音を殺す。北条自らに教わった技で彼のすぐそばまで忍び寄るも、その瞼が開かれることはない。息をしているのか疑問に思うぐらい静かに眠っている。
 普段は鋭い印象を受ける顔立ちだが、寝顔は案外幼いんだなと頭の片隅で考える。その感情は決して穏やかな心持ちで浮かべたようなものではなく、頭の大部分を支配している囁きをごまかすためのものだった。


ーーー今ならば、もしかして、いや、間違いなく。


 心臓が早鐘を打つ。考えないようにと目を逸らしていた何かがてっぺんからつま先まで降りてくる。氷水に浸しているかのように指先が冷えていくのがわかった。
 北条骸を殺せばその腕輪を外してやる、と。いつしか投げられた言葉が脳内でリフレインする。

 しにたくない。こんなことでしにたくない。ひとをひとりころすだけ。しにたくなんかない。このひとをころせばすべておわる。それだけでいい。そう。だっておれは。
 おれはそのために。そのためだけに、
 ーーー烏黒の衆に入ったのだから。


 懐からナイフを取り出す。使い慣れた武器ではない、だが、確実に命を奪うためのものだ。
 逆手に柄を握る。両手で握りしめる。心臓の位置を計る。あとはただ振り下ろすだけでことが済む。
気づかれてしまうんじゃないかと不安になるほどに、鼓動の音がいつもより鮮明に身体の内に響いている。
 だいじょうぶ。一瞬で終わる。いや、終わらせなければいけない。心臓がうるさい。手が震える。狙いを定めて。ああ、くそ。振り下ろすだけだ。難しいことじゃない。ただ、それだけでいい。


「死にたくないくせに、他人の命は奪うのか?」


 耳元で響いた声に、弾かれたように勢いよく振り返る。
 だれもいない。当たり前だ。いまの声は他でもない、自分の声だ。幻聴だ。誰にも聞こえていない、自分にしか聞こえない。心の中でずっと問い続けている自問自答の言葉だ。

 握りしめていた両手からナイフが滑り落ちる。カランと金属がぶつかる音がして、今まさに命を奪おうとしていた相手の足元に転がった。

「は、はは、……は、」

 乾いた笑いが口から洩れる。張りつめていた糸が切れてしまったかのように、冷え切っている身体からどっと汗が噴き出した。

 それと同時に、ナイフを拾い上げ一目散に駆け出した。
 無我夢中で拾い上げたせいで刃の部分を掴んでしまったのだろう、手のひらから血が溢れ出して止まらない。けれど、足を止めることはできなかった。

 涙がこぼれる。許されることではない。人の命を奪おうとしておいて、傷付く資格など自分にはない。地面へと血痕を残しながら、目的も決めずにただ走る。どこでもいい、どこでもいいからただただ遠くに逃げてしまいたかった。そのまま消えてしまえたらどれほど幸せなのだろうか。死ぬ勇気もないくせに、生きるための意思も中途半端だ。
 人混みの中、もはや少量とは言い難い血液に濡れた自分の姿に気付いた女性が小さく悲鳴をあげた。どよめきが伝播する中、それを気に掛ける余裕もなくただただ走り続ける。そして、次第に人間の波へと溶けていく。





 隠密とは口が裂けても言い難いほどに慌ただしく去っていった足音を聞き、男はゆっくりと瞼を持ち上げる。

「……アホやな、ほんまに」

 地続きに残る血痕を見つめながら、ぽつりと呟いたその言葉は誰もいない空間に静かに溶けていった。